このブログで昔から何度も生物の進化について書いてきた。進化論の世界で唯一正統派・主流のように言われているネオ・ダーウィニズムの進化論は、どう考えてもピンと来ないという話だ。小型の恐竜が進化して羽根が生え、骨が空洞化して軽くなり、空を飛ぶ鳥になったというような、いわゆる「大進化」については、DNA主義のネオ・ダーウィニズムでは説明できない。ある恐竜の子がDNAの突然変化で羽毛が異常に多い毛深い恐竜になったとしても、それで鳥という別の種が出来るわけではない。有性生殖だから、つがいになった相手はまだ元の毛の薄い恐竜のままだろうし、たまたま上手く毛深い子どもが数匹生まれても、それの発展だけではまだ鳥にはならない。偶然の一匹の「かたわ」の子が、全体を巻き替えて、恐竜が鳥になることはあり得ないと私は何度も書いてきた通りだ。
更に、環境の厳しい変化が、突然変異を一気に発生させるHyper-mutationについても述べ、環境の激変時にある種の生物が一斉に別の種に変化する可能性につき述べた。これらは全て単純馬鹿的なネオ・ダーウィニズムを越える可能性のある考え方だ。(2010年8月13/14日の当ブログ記事参照。)
このほど、早大教授の生物学者、池田清彦氏が「構造主義進化論入門」「進化論を書き換える」という二冊の本を出した。この先生は前からネオ・ダーウィニズムが破綻しているという事例を挙げ続けている先生だが、その新著も痛快であった。
池田氏によると、DNAの突然変異とその後の自然淘汰だけで説明できる進化は、ごく微細な小進化、特に単細胞・無性生殖生物などの漸進進化程度である。生物は、遺伝子の最小単位であるDNAを構造的に積み上げたシステム、胚から発生させ形質をかたち作る遺伝子群の構造的なシステムで形質が決まるのであって、末端の個別DNAが突然変異したくらいでは、新種は生まれないという。絶対その通りだ。それに関連して私の知らなかった興味深い事実がある。哺乳類と、節足動物の昆虫は、眼が出来る前に進化上分岐しており、後の世に共に別々に目を獲得し進化させた。しかし、哺乳類のマウスの目を形成するDNA連鎖と昆虫のハエの目を形成するDNA連鎖を比べると同一なのだそうだ。しかも、驚くのはマウスの目(人間同様の単眼)を作るDNA連鎖を、ハエに移植すると、なんとハエの複眼が出来るというのだ。大進化は個別のDNAが偶然に突然変異して起きるのではなくDNA群が組織的に変化すること、しかも、タコの目と人間の目が酷似しているごとく、全く別系統の種に同一のDNA群が発生してきていると思われる。更に、同じDNA群でも、その置かれた生物のシステム条件の違いで、単眼か複眼かの作りわけまですることが分かる。これは驚きだ。ネオ・ダーウィニズムの人は、これをどう説明するのだろう。
また、池田氏は、ネオ・ダーウィニズムがDNAのデタラメな突然変異で偶然に様々な生物の形質が出来ると思いこんでいるが、実は生物はむしろ「ある形には進化できない」という禁止ルールに縛られているとも言う。脊椎動物は、一旦脊椎を獲得した以上、脊椎を持ったシステムを基本として更に別のシステムを付加することは出来ても、突然脊椎を放棄した別のシステムに変化することは出来ないという。好き勝手なシステムを作っても、胚からの発生という奇跡的なプロセスが上手く行かないのである。ネオ・ダーウィニズムは、そのような「生物が何には進化できないか」ということの説明には無力だという。なるほどと思う。
しかし、本人が認めている通り、池田氏は、環境が大きく変わったときに、生物の遺伝子の全体が構成しているシステムに大きな条件設定の変更が生じることをイメージしていても、その仕組みは未だ全然分からないといっている。個別DNAの突然変異ではないことは確かだが、それ以上は分からないということだ。案外、私が勝手に言っている生命に影響を及ぼす独自の「生命場」のようなものが将来明らかになる可能性はまだあると思う。池田氏のお陰で、「私の進化論」は少しまた進歩したが、まだまだである。多分、全部分かる前に、私の寿命が尽きそうだ。残念。
Nat
一時、茨城県で規定以上の放射線量のほうれん草が出て、出荷禁止とか摂取禁止となった。問題はその後、禁止が解除されても、茨城や福島の野菜が敬遠され続けていることだ。
まず、この手のことが起こると、少なくとも、ヨーカド-やイオン、大手コンビニ等、大手流通は、まず消費者の安全を最優先する立場から「ちょっとでも消費者が怖がるものは置かない」というポリシーを採る。今回の場合、西日本からの代替ほうれん草が問題なく供給されているので、それは消費者にとっても頼もしいポリシーである。また、それが故に、ヨーカド-等の安心ブランドは守られ、余計に強いものとなる。ビジネスとしては至極もっともなことである。しかし、その陰で捨てられるのは、風評被害で生活基盤である野菜生産・供給を理不尽にも拒否された地元の生産者ではないか。ヨーカドーのような大手流通も、その点は多少気になるであろうし、出来れば「皆さん、茨城の野菜はもう大丈夫です。茨城の生産者のためにも、茨城の野菜を買いませんか」くらいなことも言ってみたいかも知れない。しかし、そんなことを言っても、必ずしもヨーカドーが人気を博するわけでもないし、消費者も簡単にそのようなことに組みしない。そこで、ヨーカドーのような大手流通が仕入れない。だから、農家と流通の間に入っているJAなどの卸も、農家から買わなくなる。ということで、福島・茨城の農家は折角作った作物を廃棄せざるを得なくなる。
私は、今回の原発事故の被害者の中でも、本当に理不尽に苦しみのただ中に突き落とされている人たちの最たる一群が、このような風評被害の農産物、水産物の生産者であると思う。野菜が津波などでぐしゃぐしゃになれば、まだ諦めもつく。しかし、ちゃんとしているのに、また放射線汚染なんかないのに、手塩にかけて育てた作物を廃棄させられる。こんな絶望的な悲しみはあろうか。私はそう思う。
そう思っていたら、ネットで、茨城つくばの「つくばブルベリーゆうファーム」と「ごきげんファーム」という二つの農園が、風評被害に対する応援・サポートを求めていて、ネットで野菜を買ってほしいと呼びかけているのを見つけた。
この支援サービスを運営している「ブルベリーゆうファーム」や「ごきげんファーム」について、私はネットのサイトに書いてあること以外、何も知らない。だから、この私の記事を読んで、どう反応するのも、あなたの判断でしてほしい。しかし、私も余り大きなことは言えないが、出来れば人の苦しみを少しでも担い合う人が多くいてほしいと思う。 Nat
前回、稲作農耕民族の日本人は「最悪の場合のリスクは余り考えたくない、実際にそうなってしまったら、もうしょうがないけれど、事前に余り威かさないででほしい」と思う文化があることを述べた。最悪リスクを常に前面に出す欧米文化との違いだ。
昔から良くマネジメントの世界で逸話のように語られてきた事例で、三菱重工のタービンブレードは絶対壊れないように作ってあるので、万一壊れたら大変だが、
即ち、アングロサクソン等の欧米人は、「最悪の場合」、「万一の場合」の対応策を、非常にオープンに議論し、マニュアルにし、練習も繰り返す。それが欧米人の得意とする所だ。今回の地震の直後の
私が仕事にしているビジネスの分野では、大分、この点が改善されてきていて、事業計画に対して最悪の場合のリスク対応をオープンに議論しても「そんなにこの事業に自信がないのですか?」などと言われることは少なくなった。しかし、同じビジネスでも東京電力はまだ昔の体質のようだし、また政治の世界、官庁の世界でも、まだまだ「今、皆で抑え込もうとして頑張っている時に、万一抑え込めなかった時の対応など話したくもない」というような気質が支配しているように思われる。
これに対して、欧米の関係者、例えば最近登場しているIAEAや、欧米の報道機関の発表では、常に最悪の事態を前面に出す。その結果、今、当事者である日本では必死に安全が強調され、東京などでは市民も案外普通の生活をしている。その反面、海外では最悪の事態ばかりが意識され、日本から欧州に到着した輸入品の放射線検査をするまでになっている。
日本人の文化では、最悪のリスクを言ってしまうと、人々が不必要にパニックすることを懸念する。人々の中には、リスクと現実との違いも冷静に理解できない人もいる。だから、一番理解できない人、一番パニックする人のレベルに合わせて、余り難しいこと、人を驚かせることは言わないで置こうということだ。悪くいうと「知らしめるべからず」になるが、良くいうと「理解できない人に余計なことを言うのは酷だ」になる。このやり方は、最悪のリスクが現実のものにならなかった場合は、「だから変に騒がせないで良かった」ということになる。しかし、ひとたび最悪の事態が現実になった時は、皆、突然それに直面するので、パニックは制御不能の極限状態にまで達する。
私は、今回の福島原発事故の最悪リスクへの向き合い方に、まさに上記の稲作農耕民族の日本人と、森の人ゲルマン民族の違いが大きく出ていると思う。その違いが、結果として、事故対応にどう繫がっているのだろうか。 これを次回に。