カリスマ評論家の間違っている二つ目は、政府が巨額債務を何年かして国民に返さねばならないと想定していることだ。政府借入れがどんどん増えると、これはダメ。しまいには国民の余りのお金を越えて、外国人のお金にまで手を出すことになるからだ。しかし今のように、国民の「余りのお金」の余裕がまだ200兆円もあって、それを外国に貸しているくらいだから、政府借入れがこれ以上大きく増えない限り、それで問題ない。返さなくてもいい。極端には、800兆円の政府借入れが永遠にそのままでも大した問題ではない。所詮、国民の余りのお金は国債に回るしかないのだから。代々の国民が受け継いでいくのでもいい。よく「後世に政府の借金を残すのか?」などというが、残すのは政府借金だけではない。国債という資産も子孫に引き継がれる。
実は、これが問題にならない背景には、日本の金利が非常に低いことがある。国債でも1%くらいの金利だから、800兆円でも金利は8兆円だ。元本を返さなくても、この金利だけを毎年払えれば、それで雪だるまのサラ金地獄にはならない。外国では金利が高く、すぐ雪だるまになる。そしてなぜ日本では金利が低いかというと、結局、日本の国民のお金が日本国内で余っているからだ。ということで、800兆円をずっと返さなくても問題はないのである。
というわけで、金利の8兆円だけを負担すればいい。しかし、それは結局誰が負担しているのだろう? 勿論、直接的には政府が税金から払っているのだが、その税金は国民から来る。とすると、国民が国民に8兆円の金利を払っていることになる。自分で自分に? 違う。800兆円の借金は、実質的には、お金の足らない国民がお金の余った国民から借りているに等しい。その間に入っている政府は単に、公共の仕組みである。つまり政府のサービスは国民みんなが受けるのだが、政府がサービスを継続するのに必要な資金を税金と国民からの借金で賄っている。ところが、国民の中にはこの借金に応じることの出来ない、お金のない人も多い。だからお金のある国民が纏めて政府にお金を貸してあげている。その分、お金のない国民の払った税金が金利として、お金を貸している国民に回っている形になる。ということで、800兆円はお金のない国民の、お金のある国民からの借金と同じことである。私はそう考える。
そうやって、この国が回っている。しかしこの「持てる国民の受ける、ねたましいような金利収入」も所詮1%だ。かわいいもんだし、少しは金利がかかるので当然といえば当然だ。だからそれも、とりたてて怒るようなことでもない。以上のとおり、国債問題は特に問題ではないということになる。私はカリスマ評論家ではないが、無名の私の評論ではそうなるのだ。 違うかしら?
Nat
●コメントを頂いたので、念のため追記する。上記の通り、800兆円の債務そのものが即問題ではない。繰り返しになるが、それ以上どんどん増えないのであれば、まだ国内の資金の余り200兆円があるから大丈夫だ。ところが、実際には、基礎的財政収支(いわゆるPB;国債など借金関係の収支を除外した、通常の収入と通常の収支のバランス)が去年度で13兆円の赤字、今年は33兆円の赤字にまで増えている点が問題だ。PB赤字の額は、とりも直さず、政府債務がその分増えるということだ。仮に毎年30兆円のPB赤字が生じると、200兆円の国内資金の余りは7年で食いつぶされる。そこからは、海外からの借金に依存するという大問題の世界に突入する。だから、政府の債務の問題は、800兆円の債務のストックが問題というよりも、フローの方のPBの大幅赤字が続きそうな点にある。PB赤字も一時的ならば、余りの資金がまだ200兆円あるので、それほど問題じゃない。特に大不況などの年に10兆円、20兆円単位でカンフル剤を打つのはいい。しかしそれは、一時的カンフル剤と経済の活性化諸施策とを併せて、その後の年にはPBを黒字に持っていけることが前提になる。毎年、カンフル剤しかないのであれば、麻薬中毒患者と同じである。だから某評論家の言う800兆円が問題なのではない。PBの継続的赤字こそが問題なのである。 以上、補足です。Nat
●もう一点、追加の補足: 今日(4/29)の日経新聞に載っていたことだが、S&Pの米代表に言わせると、日本は老齢化で1400兆円の金融資産を食い潰していくので、国債の国内消化が将来的には難しくなっていくという。 なるほど。もしそうなら、誰か専門家に、どの程度のペースで食いつぶしが進むのか、200兆円の余りがいつごろ消えるのかを教えてほしいものだ。 Nat
しかし「国民の保有の資産が国に回っているだけだから問題ない」というロジックには、常に、それはまやかしとかいった反論が出て来る。先日も夕刊紙の一つに某カリスマ評論家みたいな人の意見で、「国の借金は国の借金。国民の資産とは別もの。国のグロスの借金800兆円は、毎年10兆円ずつ返しても100年かかる。しかも政府は毎年10兆円も返せない。もう破綻だ。」というような論旨が載っていて、一見もっとも風に聞こえた。
しかし、カリスマ評論家氏は、まず政府が国民自身から借りていても借金は借金、だから問題と言っている。しかし日本国民が自分のお金を運用する場合、為替リスクとか外国は不慣れとかもあるので、圧倒的に日本国内での運用が主になる。そして日本国内で安全に運用となると、銀行預金(そこから結局国債に化けるが)か直接国債を買うかのどちらかだ。つまり、国民のお金の余りは、どうやっても政府の国債になるしかない。それでも足りなくて、外国人からのお金まで借りると、これは大変。外国人のお金は逃げるのも早いからだ。ということで、安定的な日本の国民のお金の範囲で政府が借りている分には、国民自身が政府を動かしているだけだから基本構図は悪くない。
ある時、ある生物の種が、一定の方向に一斉に変異するとして、その背景に想定し得る仕組みは何か? 一つの説はウイルス説。日本人が言い出した説らしい。つまりトカゲの例で言うと、ある時、トカゲの手に羽根を生やすという遺伝子を含んだウイルスがある種のトカゲを襲い、多くが感染。それでその子どもに羽根の生えたトカゲが多数発生というシナリオだ。なるほど、この説では、一匹のトカゲだけが突然変異するのではなく、多数が一斉に変異する説明にはなる。しかし、進化の背景となったようなウイルス事例はまだ全く発見されてないというし、余り支持もされてないようだ。私としても、これは思いつきのような気がする。
一方、進化、遺伝子の研究の最先端分野では、私のイメージしている「生物の遺伝子の中に内包されている何らかの一斉進化への仕組み」につながる可能性のある話もあるようだ。まず、ポリジーン。犬にはチワワからセントバーナードまで非常に幅がある。しかし、同じ犬なので交配が可能だ。チワワとセントバーナードのような体の大きさや、バランスの差異を、主に環境適応によって生み出す遺伝子がポリジーンらしい。環境からの圧力が高まると、まずはポリジーンの働きで、背が伸びるとか、色が黒くなるとか、そういう程度の差の形質変化が種全体に発生する。そして、そのような形質変化はちゃんと遺伝する。京大で50年間にわたり1400世代のショウジョウバエを代々暗闇で飼育し、暗闇に適応する形質変化(毛が伸びるとか、嗅覚反応が鋭くなるとか)が起きることを確認しているという。それがポリジーンの仕組みだろう。
それにしても、眠っていた上位遺伝子が覚醒すると、なぜ哺乳類にも精密光学機器のような眼球が発生、そして頭足類のタコにも同様の眼球が発生したのか? 上位遺伝子中に眼球の原型的設計図が隠されていたということか? そんなことは有り得るのか?いよいよ謎は深まる。いっそのこと、生物には最初から「
これまでも何度か、進化の仕組みに関する謎について書いてきた。
私がおかしいと言い続けているのは、このような「一匹」、つまり一つの「個体」だけに偶然突然変異が起こっても、それ以上の広がりに繋がらず、ましてやそのトカゲの子孫が鳥にまで進化することなどはないということだ。手に少し羽根が生えている変なトカゲが1匹登場しても、それだけでは有利でも何でもない。だから、そのトカゲが他より多くの子孫を残せる保証はない。更に、その子孫の中から流線形の大きな羽根を生やすという更なる突然変異が具合よく発生する確率は低い。そもそも羽根っぽい奴はそいつの兄弟姉妹しかいないので、羽根っぽい奴ら同士で交配するには近親相姦しかない。また、たとえ大きな流線型の羽根を生やせたとしても、骨が重いとまだ空は飛べないから、生存有利でもない。むしろ大きな羽根が邪魔になるだけだ。そこから中空の骨の突然変異のやつがまた1匹偶然に発生し、そいつが上手く子孫を増やせたら初めて鳥になるかも知れないということだ。個体への偶然の突然変異の更なる偶然の集積だけでは、どうしても進化は説明出来ない。突然変異は自然界では突然、偶然に起きるだけだから、研究が難しい。人工的に
私は
勿論、私も怒る。無我の境地に達さない限り、人は怒る。しかし私が思うに、それをどうやって鎮めるかというハウツーよりも大事なことがあると思う。それは、自分が怒ったとき、自我構造の中のいったい何が侵害されたと思ったのか、それを内省的に見つめてみることだ。つまり、怒りは自分の心の構造を浮き彫りにしてくれる道しるべであると思う。例えば「君は奥さんのいいなりだ!」と言われて逆上する人は、自分の心の中に奥さんに対抗して自分の男ぶりを無理にでも誇示しようという戦いをずっとしてきている人、それによって何とか微妙に自我が保たれているという人だろう。自分が何で激しく怒るのかを知ることによって、自分の心の構造を良く知ることが出来るのである。その結果、あくまでもその結果だが、怒りは、怒っている自分を見つめることで比較的コントロールできるようになっていくようにも思う。