前回、人間の場合のSEXの基本的目的は生殖ではなく快感・愛であり、生殖はその結果であること、そしてそのことを避けずに性教育で真面目に語り、歳に応じて青少年にも考え、学んで欲しいということを書いた。そして、それは必ずしも無秩序なフリーSEXの奨励には繋がらないとも書いた。そのためにも、フリーSEXをどう考えるかが、性教育の中での大きなテーマになると思う。その場合、必ずしも一つの固定的価値観や枠にはめ込むのは適当ではないだろう。その為にも、青少年が自ら考え、学ぶのをガイドするに足る座標軸と問題意識を、大人側がしっかり持っている必要がある。 ということで、フリーSEXに関する価値観につき、一つ大真面目に考えてみたい。
まずは神の目から見た「人の道」などというものは一旦忘れて、人間集団でフリーSEXを抑制することに意味やメリットがあるとすれば、それは何なのかを考えてみたい。フリーSEXの目的は快感・充足感の相互追求だろう。では、例えば男女ペアでカラオケのデュエットを歌うこと(それも一定の快感追及である)、あるいは、男女ペアでこった肩なり足なりを揉み合うことと、SEXは何がどう違うだろうか? 勿論SEXの最大の違いは、それが妊娠という重大な結果に繋がり得るということだろうが、少なくともオーラルSEXでは妊娠リスクはない。それでもデュエットとは大きく違うことがある。それは、SEXでは裸になり、通常人には見せない“恥ずかしい”秘部を相手にさらし、しかもそこを集中的に使うという点だ。そのような行為は他にはない。そうやって恥ずかしい秘部をさらし相手に提供するという特別の便宜を図るのは、その見返りに特別の快感・充足感を期待するからだ。そこで、その特別の便宜提供の見返りで特別の充足感がうまく得られれば双方ハッピーということになるが、それが往々にしてそうはいかない。相手が余りにも一方的な行為に終始し、自分は何も得られなかった場合の失意や傷心。途中で降りてしまわれた場合のバツの悪さ。あるいは体に関するコメントが深く心の傷を生むこともある。カラオケのデュエットでは、相手が音痴でも笑い話で済む。しかし、SEXの場合は何しろ秘部までさらして特別の譲歩をしているのだから、いざ期待が大きく狂うと様々な心のダメージがあり得る。これがSEXだけが持っている固有の大きなリスクなのである。このようにSEXは、妊娠を考えなくても、心の面で非常にハイリスク・ハイリターン型の楽しみ行為なのだ。
実は、恋人や夫婦の間でも、このリスクは時に表面化し、SEXのずれで不仲になることが良くある。しかし、恋人や夫婦の場合はお互いに相手のパターンを一応知っているし、また「ずれ」があれば相談してその次からは修復改善する余地もある。しかし、フリーSEXの「一晩限り」の関係の場合、いかにその瞬間好き合ったとしてもSEXのずれが大きな心のダメージだけを残すリスクがあるだろう。だから、若い人に軽い気持ちでのフリーSEXをしてもいいというのは、子どもにお金を与えて中国の株式投資をさせるようなものだ。本人がリスクを覚悟の上でも、相手のリスクまでは本人も負いきれない。
しかし、そのようなリスクにつき理を尽くして説明し、若い人に納得してもらうのは簡単ではなかろう。だからこそ、多くの社会でたとえ“押し付け倫理”になってしまっても、説明抜きで「貞操」を教える。日本の性教育でも特に女性に「あなたの体は大切なものだから、簡単に明け渡さないように・・」的な指導をする。実はこの背景には、妊娠リスクだけでなく、このような「心のハイリスク問題」もあるのだろうと私は思う。
だから若者への性教育では、妊娠リスクだけではなく、心の面でのハイリスク・ハイリターンも語る必要があろう。今は「避妊さえしっかりすれば、気軽に誰とでも・・・」という考えだけで進んでしまう若者も多いのだから。そしてSEXにおいて自分の心のこと、相手の心のことをどう考えるか/考えないかにつき、自分の生き方を模索してほしいと思う。
この続きの「妊娠問題」は次回。 Nat
現状での学校の性教育なるものは、どうも「おしべとめしべ」、精子と卵子、そして生理・射精等の男女の体の構造・仕組み、更には歳にもよるが避妊や性病等といった、要するに性の肉体面・生理面を中心に教えるらしい。これらのことを知らないで、若い人がセックスに走ると、予期せぬ妊娠という重大な結果を生むことにもなるからだろう。若い人は、マスメディア・漫画・ネット等を通じて「快感・愛をテーマとするセックス(
しかし、私がここで述べたいのは、学校の性教育はそこで止まってしまってはいないかということである。学校では、精子と卵子を教える。そして、お父さんとお母さんも、そうやって結合してあなたという子どもが作られたということを教える。あたかも、大人が
「生殖のための
もっと肯定的に、そもそも人間は神によって快感を得ることの出来る体の仕組みを与えられたこと。そして愛し合える年頃になると、二人の愛の関係の中でそれを互いに発動し合うように作られていること。生殖は飽くまでもその結果であること。父母は生殖のために異常な行為をイヤイヤ行うのではなく、生殖を終えても尚それを喜んで行い、一生そうやって愛し合う。それが人というものであると、どうして言えないのであろうか。「おしべとめしべ」の性教育を語る学校の先生も、実は個人的には生殖の
私は、神さまが人間には生殖を超えて快感と愛の表現としての
それには、阿吽の呼吸以外のコミュニケーション能力、日本の価値を国際化変換する能力、他民族ミックス組織の中でも力を発揮できる対人能力、そういう能力のある人材開発を国家戦略として行う必要がある。つまり「国境、民族の境を越えられる人材」作りだ。
まずは、2009年11月19-20日の当ブログで書いたとおり、英語を英語として話せる教育。これは絶対必須であり基礎である。全国民が対象。次に必要なのは、日本人以外の異民族との若い頃からの「ミックス体験」。これは全国民がこれに参与できる必要まではない。言ってみれば将来“指導者”になろうとする若者だけでも、その対象になってほしい。(変なエリート主義にならないように配慮する必要あるが。)そしてミックス体験の機会としては、海外留学促進もいいが、やはり日本国内でのミックスの場を圧倒的に増やす必要がある。それには、様々な問題はあるものの移民促進、あるいは外国労働者への日本の開放促進で、少なくとも大都市部だけでもいいから、異民族の人たちが多くいる場を創り出す必要がある。そしてその家族の子どもや、異民族の若者にも多くいて欲しい。そのため日本への留学も促進。平成の「開国」だ。その上で、学校に“ミックスクラス”を制度的に作る。或いはミックス主義の学校を作り、増やす。そこでは、小さい時から異民族と一緒に学び、一緒に遊ぶ。言葉はお互いに無手勝流の試行錯誤でいい。段々慣れる。会社や役場でも、もっとミックスを意図的に導入する。そうやっていくと、日本人同士でしか通用しなかった価値・決め事・了解事項を、明確に定義し表現する必要にも気が付く。ものごとへの反応が様々であることに、こどもの頃から気が付く。異民族文化への関心も出来るから、日本以外の世界に関する体験や学びを自ら深めようともするだろう。そうやって、新しいミックス型の人材が増えていく。
日本人だけでしこしこやっているだけでは、もう日本全体が沈下していくだけだ。英国も北欧もそれぞれの国策で再浮上した。日本も再浮上のために国策が要る。そのベースになるのは人だ。江戸の幕末には、世界に目を広げようと蘭学塾などが出来て、意欲的な若者がそれに参加、明治時代を担う人材になった。そして出来た明治政府は、教育重視で更に人づくりを進めた。今、日本政府は「平成の蘭学塾」で「ミックス型の若い人」を多数育成する必要がある。少なくとも明日の日本のリーダー候補生はそうやって育成せねばと思う。今の民主党の要人を見ても、そもそも彼ら自身は全くミックス型ではない。外国からのメッセージやアドバイスに正しく反応できるタイプでもない。政治家というのは優れてローカル対応型だからだ。国際的なミックス型人間は、これまで日本ではとかく「外人の真似するいやらしい奴」であった。しかし、もうこれからは、指導者層になる者はミックス体験が必須である。私は、このことを強く言いたい。
この記事の出発点は、1300年間、「日本」が「日本」であり続けたことだった。それはそれで良かろう。しかし、これからの「日本」は「人が世界に開けた日本」に進化せねばならない。今でもマイケル・ジャクソンの歌を全部知っている日本人の若者は結構多いかもしれない。しかし、それはここでいう「世界に開けた人材」ではない。日本人組織を離れて一人の人間になっても、異民族とミックスして力を発揮できる人材、「国境、民族の境を越えられる人材」を言う。明治の初めの頃は、そういう人材も輩出された。しかし今は輩出する仕組みを国が持っていない。それを大きく改めたい。あなたはそう思わないだろうか?
日本あるいは日本人は、基本的に異民族や他国を交えた“リシャッフル”(一旦ごちゃ混ぜにして作り直し)の体験もないし、そもそも動き回らないで一箇所で稲作農耕に従事してきた文化だから、元より大きな戦略思考は全くない。しかし、その分、日本人は「わざ」に拘(こだわ)り、様々な分野で質の高い「わざ」を作り上げてきた。世界に冠たる和食の「わざ」。大陸から採り入れた陶磁器技術を日本の陶磁器に完成させた「わざ」。生け花の「わざ」。浮世絵や墨絵における「わざ」。そういう伝統的な「わざ」への拘りは、工業分野でも日本のお家芸の自動車・家電における製品つくりの「わざ」にも繋がった。そしてもう一つ、日本の誇れるものが「もてなし」。そもそも礼節をわきまえた民族であるが、客をもてなすという発想が日本のサービス業には息づいていて、世界でも類のない「もてなし」文化になっている。
ということから、やはり、日本は「わざ」と「もてなし」という強みを活かして、もっと他国・他民族との新しい「係わり」を展開していくしかない。従来はそれを製品の輸出でやった。最近はそれを現地生産に替えようとしているが、日本のやり方や基準をそのまま続けようとするだけなので上手くいかない例も多い。もっと、日本の「わざ」や「もてなし」を国際的に理解され、どの国・民族にも通用する普遍的な技術や仕組み・システムに変換させる必要がある。その上で、日本人は、そうやって普遍的に変換された日本の技術・仕組み・システムを、アジア等の世界各地固有の状況に適合・応用することに集中する。そして、それがモノになるまで、現地の異民族と一緒になって働く。それにより日本の技術・仕組み・システムが日本にお金をもたらす。そういうビジネススタイルに進化することが非常に強く求められている。
ところが、それが今の日本の人材力では出来ないのだ。要するに、日本人は「内輪主義」「自前主義」であって、純粋に日本人を中心とした組織で日本流にやるのでないと、日本の良さが発揮出来ないスタイルなのである。日本人同士の「阿吽の呼吸」の通じないコミュニケーションも苦手である。そして、日本の「わざ」「もてなし」を、日本人以外にも分かる形に整理し国際的に通じる技術・仕組み・システムに表現し直すことも苦手なのだ。しかし、そう言っているだけでは何も始まらない。どうすればいいのだろう?それを次回に。
1600年の間、単一王朝を続けてきた日本。一度も外国と、いわば“シャッフル”というか、“リシャッフル”(注:トランプを切って混ぜこぜにして作りかえる意味の英語)したことのない日本。このことは、日本あるいは日本人が、世界の他国、他民族と係わることが非常に下手くそな根本原因になっているのである。外交が超下手。国連などの国際的活動が苦手。勿論、外国語も超苦手。そして、秀吉の朝鮮侵略、日本帝国軍の中国大陸・南方侵略のごとく、時に突出的、極端な係わり方をしてしまう。そうやって日本、日本人だけの内輪的な仲間世界に留まる日本であり、日本人であるが、人間対人間以外のモードでの外国との係わりは、その分却って上手である。歴史的にも貿易は得意であったし、近年には車と電器の輸出で諸外国と盛んに係わりを持った。また外国人のもたらす文化・風物の日本文化への柔軟な取り込みとアレンジに関しては非凡な才能を発揮してきた。しかし、物品、文化・文物を介さぬ、ナマの人間同士の係わりになると、1600年間、他民族・他国と一度も“リシャッフル”したことがないという特異性が悪い方に出て、世界でも最も不器用モードになってしまうのである。
そのような日本、日本人の対極にあるのが、北欧諸国ではないだろう。スウェーデン、デンマーク、フィンランド、ノルウェイ。元々あちこち動き回るバイキング族や牧畜放牧民族だ。動き回らず同じ場所でひたすら地道に暮らす稲作農耕民族型文化の日本人とは、そもそもが違う。しかも北欧諸国は、大国・小国がひしめき、戦争・同盟を繰り返したヨーロッパの端っこの国だから、まさに“リシャッフル”の歴史だ。という素地がある中で、ロシアやドイツのような大国主義と決別、近代では自らの国家戦略に基づき極めて国際的な活動で国を発展させている。ビジネスで見ても、スウェーデンの
さて、日本はこれからどうする? 世界の中で、孤立し、はじっこの方に押しやられつつある。北欧のサルまねをしてもダメだ。それでも、日本流でいいからなんとか国際的な係わり、それも文物経由、お金経由ではなく、人対人で、もう少し普通の国のように国際的な係わりが出来る国にならないと、本当にやばい。