♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)
生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等
2009年05月
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2009年05月21日
22:37
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クリスチャンと裁判員 その3
もう一つの問題は、「裁く」結果の「刑罰」、特に死刑の問題であろう。社会の秩序を大きく乱す人間は、誰かが裁く必要あるという点を納得するとしよう。それでも、その結果として、その犯罪者に刑罰を与える権限が、どこまで社会にあるのか?という問題は残る。今朝も人を終身刑や死刑に処す裁判員になることは拒否という人のことが報道されていた。
そもそも刑罰とは何のためか? 一つは犯罪の抑止効果。犯罪をして捕まると刑罰があるという思いが、世の犯罪を抑止するということ。更に、刑罰に服させる中で、その犯罪者に深く罪を自覚させ矯正して社会復帰させる(或いは再犯を抑制する)という狙い。三つ目は、被害者の報復したい気持ちを、社会が身代わりに「管理された報復」として果たすという点。多分、この3つだろうか。
ここで死刑の問題を考えてみよう。NHKで報道されていた、どこかのクリスチャン集団なる人たちが裁判員になることを躊躇った一つの理由は、殺人者を裁いて死刑宣告するのに加担する可能性ではないかと思うからだ。
殺人者に死刑を科す意味は何だろう。刑罰の3つの狙いのうちの、その犯罪者への刑罰による矯正効果は全くない。社会から抹殺するわけだから。一方、たぶん世の殺人への抑止効果はあるのだろう。死刑存続論者の懸念するとおり、死刑を廃止したら「殺し得」になってしまいかねない。どんなに人を殺しても、自分だけは社会から殺されることはないという保証があるのは、確かに不公平というか、バランスを欠く。更に被害者家族の報復への気持ちを満たすという意味も大きい。家族に「罪を憎み、人を憎まず」にしましょうよなどと言ってみても、「あなたに、家族を殺された者の気持ちが分かってたまるか」と言われれば、それ以上何も言えない。ということで、少なくとも日本では死刑廃止の動きは必ずしも強くない。また、世界の中でも日本は死刑執行数が増加している小数派だ。
一方、世界の中でも欧州を中心に、死刑廃止した国は多い。その理由はまず、犯罪者といえどもその命を国家が奪うことは出来ないという思想。そして世の殺人を抑止する効果としても、長期に亘る終身刑等の方が却って高いという説。最後に、裁判の間違いで無実の人を死刑にするリスクだ。このようなことだが、死刑廃止されてきている国が多いのが欧州と南米ということは、やはりキリスト教文化(キリスト教そのものではなく、それに根ざした文化)が背景にあるようだ。一方、非キリスト教文化の東アジアとイスラム国の多くでは死刑がある。どちらがいい悪いではないが、文化によって異なるのである。
という中で、NHK報道の人たちの躊躇いは、キリスト教の自分たちが裁判員になって死刑判決に加担するのは出来ないということか? 気持ちは分からないではないが、もし、殺人鬼の命に対しても愛を注ぎたいなら、自ら進んで裁判員になり、愛の観点から審理・評議に積極参加する手もある。私に裁判員のお呼びが来たら、たぶんそうしようとするだろう。もちろん社会的公正・正義と殺人犯の命との間でとても悩むではあろうが、悩むのが裁判員の仕事だと思う。(本項了)
Nat
2009年05月19日
21:21
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その他色々だよ
クリスチャンと裁判員 その2
少なくとも私の行っている教会(日本キリスト教団系)では、クリスチャンは裁判員になるべきかどうかという議論はない。 NHKの報道の「クリスチャン集団」はどこの宗派の人たちか分からない。しかし、テレビに写っていた人たちは、裁判員になるべきかを話し合うのにあたり、全員が聖書を前に置いて答えを聖書の文言に求めようとしていた。そこから、その人たちは聖書の一つひとつの字句を生活の根拠にしようとしているのではないかという印象を持った。「人を裁くな」と書いてあると、とにかく「裁く」形になる行為はしてはいけないという判断をする。イエスのその発言の背景にある思いや信仰、あるいは永遠の真理を汲み取ろうとするのではなく、全く字句通りをルールとして受けとめているのではないかという気がする。(違ってたらごめんなさい。)それでは、イエスが命をかけて批判しようとしたパリサイ人(ユダヤ教の律法主義者)、彼らが(旧約)聖書に書かれた決め事(律法)を字句通り形式主義的に当てはめようとしていたのと同じになってしまうではないか。
更に驚いたのは、彼らの話し合いの中で、男の人がある聖書の箇所を指して、「当時のユダヤの社会でも人を裁判する制度があったから、我々もそうやっていいのではないか?」というような発言をしていた点だ。当時のユダヤ社会でやっていたことが全て正しいなどという聖書の解釈は、とても考えられない。当時のユダヤ社会の差別や人間性疎外、それらに憤り、人間性の回復、愛の神との関係の回復のために生き死んだのがイエスではなかったのか。
そのような人たちの話し合いをNHKテレビが「クリスチャンの話し合い」として報道したのは残念であった。報道の自由があるし、どのような一派でも自分たちを「クリスチャン」などと名乗る権利はあるので、しょうがないが。
前に当ブログの記事「キリスト教のひっかかること」シリーズ(2007年2~4月)でこれに関連することを色々書いた。その中の私のコメント(2007/2/14)を再掲しよう:「2000年後の現在に生きている私たちにとっても、本来、向き合うべきものは、聖書や、後の世に体系化されたキリスト教でもない。本当に向き合うべきものは、神そのものであろう。しかし、当時の人が神を感じたと思ったイエスは、もう直接目の前にはいない。我々の前には、イエスを直接信じた人達が後世に残したものしかない。それが聖書だ。そこで私たちは、この残された聖書というものに触れながらも、その向こうに、当時の人たちが直接向き合ったものを見据えようとすることになる。いわば聖書という望遠鏡で、遠くにある本当に見たいものを探すということになる。」このコメントは誤解も生みやすいだろうが、聖書そのものは神ではないということだ。一方、神に直接会って神の言葉を聞くことは出来ない。しかし、神の啓示を受けたと信じた人たちが祈りをもって書いた文章を、おなじように祈りを持って受けとめ、その文章の奥に神のメッセージを聞き取ろうとしつつ生きることは出来る。聖書とはそのようなものである。だからある字句を取り上げて、それを直接的に生活の指針にしようとするのではおかしいことになる。聖書は幾つかの元になる資料の編纂書物でもあり、字句の間には矛盾も多い。聖書は、「聖書全体を通じて神が人間に語り掛けようとしていること」を受けとめるべきものなのである。
NHKの報道のように、聖書の字句をルールとして読む“クリスチャン”がいるとすると実に残念なことである。イエスは言った。「あなた方の守るべきルールは一つしかない。神を愛し人を愛すること。これに尽きる。」と。 では次回は裁判の結果の刑罰に対する躊躇い問題。
Nat
2009年05月18日
23:00
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その他色々だよ
クリスチャンと裁判員 その1
この間NHKのテレビで、クリスチャンと紹介された人たちが「クリスチャンは裁判員をするべきか?」という問題につき検討会を持っているシーンの報道があった。「人が人を裁くことは出来ないのではないか?」という疑問。それに対し、聖書のどこかの箇所を指差しながら「聖書当時の社会でも人を裁く制度があったので、いいのではないか?」という意見。そんなやりとりが放映されていた。私は、その疑問と意見の両方ともに「へ~~~、そんなこと言うんだ!」と思った。
まず最初の「人が人を裁くことは出来ない」について。確かにイエスは「人を裁くな。赦しなさい」といった。ここで何を裁くかというと、対象は人の「罪」だろう。しかし罪といっても二種類ある。一種類目が、その社会の決めた法律への違反、つまり犯罪。軽いので交通違反から、重いので殺人まである。英語でいうCrimeだ。二種類目は「心の罪」。人を殺してやろうと真剣に心に思うのは心の罪だろう。神が創ったかけがえない命を傷つけようと思うことは、とりもなおさず「神への敵対」とみなされ、「神への罪」にもなるということだ。英語でいうSin。しかし、心の中で殺意を抱くだけではSinではあっても、犯罪・Crimeにはならない。逆に相手を心から愛しているのだが、事情あってその相手を傷つけざるを得なかったというケース。これは法律上の罪、Crimeにはなる。量刑判断の上で情状酌量になるだろうが。
イエスの生きたユダヤ社会ではどうだったか。宗教の戒律と社会の法律が一致していた。そのような社会だから、宗教と裁判を両方司るユダヤ教支配階級(特にパリサイ人と言われる人たち)は、本来は人の心に向かい合い、人の心の罪、神への罪(Sin)を扱うべき立場であるのが、人の行為の型で人を裁いていたのである。彼らは特に下層階級の人たちを蔑視し、聖書の規律を形通り遵守出来ない「ダメな奴ら」「神に捨てられた罪びとら」と決め付けていた。これに対しイエスは「本来、人はその心が問われる。しかしパリサイ人は形の上で自分は正しい人を装い、弱い民を罪びと呼ばわりしているが、内実自分の心は穢れている。完全に偽善者だ。」として痛烈に批判し、自分は下層階級の「罪びと」視された人々と共に生きたのである。
イエスの「人を裁くな」とは、そのような背景の下に、パリサイ人を反面教師として投げかけられた言葉なのである。そして、その言葉が現代の私たちに投げかけるメッセージはこうだろう。「人の作った法律は人をその行為で裁く。しかし、神は人の心を見る。人の心を裁くことの出来るのは神のみである。そしてあなたがたは、自分の心の中に自分の罪を見ないであろうか。自分の罪を知るものは、他人の心の罪をも批判せず、他人をそのまま受け容れるのである。そして互いの心の罪については、共に神の赦しを乞いなさい。神は愛なのだから。」クリスチャンは、このメッセージに突き動かされて生きる。しかし、このメッセージは、法律上の罪、Crimeにつき、社会がどういう仕組みでどう判定し、どう罰則を科すかについては直接関知していない。それは社会が人と人の間に作った、人のルールの運営の話だからだ。イエスのメッセージは、人の国ではなく、いわば「神の国」についてのものなのだ。
だから、イエスの「裁くな」という言葉から、裁判員が社会の刑法違反者を裁くのに参加するかしないかを判断しようとするのは、見当違いである。 しかし、どうしてそのように判断しようと思う人がいるのだろうか。一つは聖書の字句主義。もう一つは多分、死刑を中心とする刑罰のありようの問題があるからなのであろう。それを次回に。
Nat
2009年05月16日
18:20
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規制緩和はもうやめか? その9
前回、改革によるサービスのコスト低下は、新しい市場・需要を生むか、あるいは公的サービスの財政破綻を回避するということを書いた。しかし、もう一つ言いたいことがある。それは日本企業対外資企業の競争だ。私は国粋主義者でもないし、“ウィンブルドン現象”で、日本のサービス産業の多くが外資になっても、まあしょうがないかと思う。しかし、外資が多くなると、それなりに、突然日本市場から撤収し顧客に迷惑をかけるとか、突然日本人従業員をリストラするといった、日本企業にはない挙動もあり得る。また、サービスのきめ細かさでも今いちだったりもする。
保険の歴史を思い出してみよう。生保や火災・自動車保険でない「第三分野」(癌保険など)は、日本政府の規制で日本の既存の生保・損保には第三分野の兼業が認められてなかった。そうやってモタモタしている間に、米国の圧力で1974年のアメリカンファミリーの癌保険を皮切りに、米国資本参入への逆差別(独占を許すこと)を強いられた。このように、保険の第三分野は、日本が規制で商品開発していない間に、結局アメリカの独占的支配を許してしまった例だ。同様に日本のサービス業界が政府と一緒になって、旧態依然たる事業モデルに安住したままで惰眠をむさぼっていると、突然黒船で目を覚まされる。サービス分野では、だいたいアメリカに先進モデルがある。いつか、黒船が政治圧力を加えて、突然、黒船の天下になる。日本勢は戦う前に敗退する。「旧態や無駄の温存」は永遠には続かない。いつか、何かで崩される。それなら、突然外圧でやられる前に自分で少しづつでも改革を進めるほうがいいというものだ。
というわけで結論としては、サービス産業の改革は無駄な人件費部分の緩やかな“リストラ”は伴いつつも、(1)低コストによる新市場・新需要の創造、(2)公的サービスの財政破綻の回避、(3)そして黒船による突然の陵辱の事前回避という3つの効果を生むのである。結局、これらは全て、消費者・国民に大きなプラスをもたらす。既存業者や官僚が抵抗しようが、国民はそれに騙されてはいけない。日本に唯一残された国内サービス市場を、改革で新しく良いものにし、新しい雇用を創造すると共に、新しい時代のサービスを国民が享受できるようにもっていくのだ。そのために必要となる、過剰な規制の廃止・緩和は、いよいよこれからが本番だと思う。以上が私の結論だ。あなたはそう思わないか? (本項了)
Nat
2009年05月15日
21:06
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その他色々だよ
規制緩和はもうやめか? その8
まず、「失業が増えるだけ」という反論に反論する前に、改革してレベルを上げていきたいと私の言うサービス産業って一体どういうものかを述べておこう。まず個人向けの金融サービスは筆頭に上げていい。日本・東京は世界の金融センターにはもうなれなかったが、日本国内に1億人向けのローカルな金融サービスは、まだまだ日本の会社が頑張るべき分野だ。規制が大きく残るのは生保分野くらいだが、各分野のサービスが未熟であり改革が待たれる。次に報道・情報・出版・広告、これはまさに規制を緩和して改革して明日の業態を目指すべき分野。あと、圧倒的に医療・介護・福祉。そうそう、教育という大分野もあった。また実は行政サービス(民間委託も含めて)が大問題。小売りも改革が要る。不動産関係(賃貸斡旋から管理まで)も重要。一方、外食とホテル・旅館は個別業者の中身の進化はあるだろうが、業界全体の業態改革テーマではないかな--- といったところだ。
上記の各分野で、ただただ守旧の風潮、そして役所の規制のための規制、このため、甚だしいナンセンスがずっと続けられていることが多い。改革が進まない最たる例が、医療業界であろう。医療業界には改革すべき根本問題が少なくないが、中でも医師不足、特に地方での医師不足は深刻な問題になってきている。事の淵源は、1982年の厚生省の医師総数制限方針にある。当時の厚生省は医療費が無制限に拡大し続けそうだとの問題を既に察知していたが、残念ながらその対処法を誤った。「今後、医師の数が増えると医療費増大に歯止めがかからない」との前提に立ち、医師数抑制(具体的には医学部定員抑制)を、20数年間、金科玉条にしてきた。この結果、ご承知のとおり特に地方で産科・小児科などが絶対的に不足。そして地方の希少な医者はパソコンを使う気のないお年寄りの医者が多いので、日本だけは、レセプト(健保に出す診療報酬明細書)や処方箋の電子化が先進国の中でも非常に遅れている。そのため、紙の書類の処理、二重・三重の再入力で、日本中の医療・医薬処方・健保業界で膨大な人件費が全く無駄な事務に浪費されている。今日、医療業界ほど国民からして改革が切望されているが、進まない業界はない。
このようなサービス産業における改革は、なぜ必要なのであろうか。日本のサービス産業では、上記の通りの医療実務の例のように、膨大な人件費が無駄に浪費されている。ひと言で言うと生産性が非常に低い。これを改革して、まるで無駄な人件費を合理化するとどうなるか。前回述べた、無駄な人件費として給料をもらっている膨大な無駄人口の失業が起こるだけか? 心配しないでいい。どうせ全ての分野で改革は残念ながらスローだから、改革の進展による失業もスローだ。失業が大問題になるくらい改革が進めば御の字なのだが。しかし実際には、失業は対応策がちゃんと打てるくらいのスロースピードでしか進まない。
一方、改革が進み生産性が上がると、どうなるか。無駄がなくなり、サービス産業のコストが大幅に低減されるのだ。前記の医療コストだって下がる。そうなると2つの大きなメリットがある。
メリットの一つ目は、サービスのコストが大きく下がるとサービスの利用者が大きく増えるのだ。冷蔵庫などのモノの商品では、価格が下がっても2台目、3台目を買う人は少ない。しかしサービスは消費したら終わりだから、コストが安いと又消費をする。例がいいかどうか分からないが、昔の銀塩フィルムの写真時代から、気軽で安価なデジタル写真・デジタルプリントの時代になって、デジタル写真関連市場が如何に大きく成長したか。昔の銀塩フィルムのDPE屋さんで廃業した所もあろうが、それに代わる新しい関連業種が大きく開花した。 コストの低下は新市場を創造し、新たな雇用も生むのだ。天下の金回りも良くなる。
勿論そうでない分野もある。医療はコストが下がっても、必要以上には医者に行かない。しかし、医療は既に健保が破綻に向かっている。この場合、コスト革命は新しい需要は生まないが、公的なサービスの財政破綻を回避する。これが二つ目のメリット。
しかし、改革を急ぐ理由はそれだけではない。 Nat
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