男は女の見たところや体に惹かれるが、女は男の心に惹かれると良く言われる。幾らでも例外はあるし、程度の差ではあるが、傾向としてはその通りだろう。私は全てのことにつき、何故だろう?と考えるのがクセというか趣味なので、この点についても前から色々考えている。
男はいわば「オス」である。動物は哺乳類でなくても、鳥でも魚でも、たいがいオスがメスにアタックをかけて、メスが受け入れてくれたらカップル成立である。受け入れてくれるメスに出会うまで、発情しながらアタックするわけだから、とにかくまずメスを見て興奮しなければならない。ということで、可愛いメスを見て興奮し、発情してアタックする。これがオスの本質だ。人間は見かけ上、もう少し品よく振舞ってはいるだろうが、本質には変わりない。今も昔もオス、つまり男は、女性の顔や肉体に惹かれてアタックする。
そして、それを迎え撃つメス、つまり女性の方も、それをわきまえていて、顔をお化粧したり、体をアピールする服を着たりする。特に欧米のフォーマルな社交の場で、女性は殆ど胸の見えそうなドレスを着る。あれは正直不思議だ。殆ど上半身裸なのだから。この間のオスカー賞の発表会でも女性は皆そんな格好をしていた。慣れない私なんかがあそこに行くと、目のやり場に困るだろうと思う。それくらい、実は人間の文化の中に、メスのオスへの肉体誇示というものが組み入れられていることが分かる。メスはそうやってオスを呼び寄せ、オスはそれに乗せられ興奮してアタックをかける。
そこで、次にメスがオスを選ぶ番だが、メスはオスをどうやって選ぶのだろう。動物のメスのオスの選び方は、今ひとつ良く分からない。理屈上は、多分強いオスかどうかを見分けているのだろうが、ぱっと会った瞬間に強いかどうか分かるのだろうか。複数のオスがアタックして他のオスを押しのけた強いオスが残るというのなら分かるが、一匹のオスがアタックしているだけなのに、何故かメスにいやがられて断られる場合もある。動物なりに、雰囲気とか匂いとかで判断するのだろう。
問題は人間のメスの、オスの選び方だ。これが動物の中でも極めて異色なのである。つまり人間のオスは、動物のオスと基本的に同じ。しかし、人間のメスは動物のメスとは違うのである。 それを次回。
Nat
本当の愛は無条件なもの。そして、無条件に相手をそのまま受け入れること。前回、そう書いた。でも、もう一つ大事なことがあると思っている。本当の愛は、無条件なだけでなく、自分を犠牲にするものと思う。無条件に相手を受け入れようとする場合、受け入れる側に色々都合があれば、それは出来ない。一応無条件に受け入れようとするのだが、今はちょっと忙しいから後で、、、とか、そこまでやるとこちらの生活が滅茶苦茶になってしまうので、、、とか言うならばどうだろう。相手の属性については条件をつけてないかも知れないが、受け入れ方につき条件をつけていることになる。
受け入れ方を無条件にするということは、受け入れる側はもうどうなってもいい。相手を受け入れることさえ出来れば、こちらはどう犠牲になっても構わないということだ。命さえ捧げてもいいということだ。ここまで来たら、本当の無条件の愛。神的な愛になる。
そして、それは神的な愛であって、人間がそのような愛を持つことは非常に難しい。しかし、歴史上でそのような愛を示した人が一人いる。新約聖書に登場するイエスだ。彼はまさに当時のイスラエルの底辺にうごめく弱き者、罪人として差別されてきた人々をそのまま無条件に受け入れた。当時、正しき者でないと神に近づけないとされていたのに、彼は「神は罪びとを救うために自分を世に遣わした」として、自ら彼らに近づき、声を掛け、そのままの彼らを受け入れたのである。そして、イエスは彼らの身代わりとして、自らの命を捧げて十字架への道を歩んだ。まさに、受け入れ方に条件をつけず、むしろ自分そのものを捨てて受け入れたのである。イエスは、そうやって、神の愛が完全に無条件であり、完全に自己犠牲的であるほど大いなるものであることを証ししたのである。そして、結局、人びとは彼が神そのものであったと信じたのだ。
私は小さく狭い人間だ。とても人を愛せない。可愛い女の子を見て、私の自己愛の変形として惚れたりすることはあっても、この世で苦しむ人たちを、そのまま無条件で受け入れる等というのは私には出来ない。少し受け入れるとしても、私の生活が滅茶苦茶にならない範囲、つまり私の生活もそこそこ維持される範囲までである。自分を完全に犠牲にしてなどというレベルには一生達さないのではとも思う。しかし同時に私には、あの方(イエス)が、私のそのような弱さのゆえに、私のために十字架で命を捧げてくださったという信仰がある。その大きなイエスの愛に私は突き動かされる。「自分の生活を維持する範囲でなら少し人のために何かしてもいいかな」程度の私を、突き動かすものがあるとすると、それはイエスの十字架での愛である。本当の愛。無条件の愛。自分を犠牲にする愛。それは十字架上のイエスの愛でこそ示されたと思う。そして、それこそが、神の愛そのものである。少なくとも私はそう思って生きている。(本稿了)
では人類愛的な愛と、男女の愛の最大の違いは何か?
一方、人類愛は、その最も純粋の形においてはこの条件がつかないのである。そして条件がつかなくなればなるほど、それは神の愛に近くなる。神の愛は「無条件に人間を受け入れるもの」である。これこそが、聖書がその全体を通じて語りかけていることである。神が人間を愛するのは、それはその人間が神にとり好ましいからではない。人間は、神から見ると醜い存在かも知れない。またとかく神の意に反する存在でもあろう。しかし人は、神が自ら創った命であるがゆえに、神はただただ無条件に人を受け入れてくださるということだ。それこそを愛という。母の子に対する愛もそれに近い。
但し、現実の聖書、特に旧約聖書を読むと、先に昨年末の当ブログで「めちゃくちゃに身勝手な旧約聖書の神」で書いたとおり、悪い人間を滅ぼしたりする神にも読める。しかし、そのブログでも書いたとおり、聖書の記者たちは結局「神は愛である」と信じたのである。人が良い行いをするから愛してくださるのではない。「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」(創世記8:21)。そんな人を、無条件に神は受け入れてくださる。これが神の「絶対愛」(ギリシャ語のアガペー)である。
でないLoveにはどういうのがあるか?
確かに喜んで与えるならば、そこには一見、愛がありそうだが、心の中までは分からない。有名寄付家としての名誉を求めているかも知れない。あるいは喜捨により、自分が天国に入れる切符を確保しようとしているだけかも知れない。だから、直接目に見える見返りを求めてなさそうに見えても、それだけで、そこに本当に愛があるかどうかは分からない。とすると、「愛」=「与えること、相手のために捨てること」ではなさそうだ。相手への心の思いの中身の方が愛であって、行為が愛ではなさそうに思える。
Nat