コードの調味料(テンション)の話しの第二弾。
私が大学生の時趣味でジャズピアノの研究を始めた頃、最初にしびれたテンションが「9b,13」というヤツだ。知らない人からしたら何それ?と思われるだろう。分かりやすいようにキーがCとする。CのキーでCでない時によく出てくるコードはG7(ドミナント)。要するに、皆さんご存知の「ドミソ」=Cコード、「シレソ」=G7コード。この「シレソ」=G7(よりきちんと言うと「ソシレファ」)で、私のしびれる「9b,13」という調味料(テンション)が使えるのだ。それを加えたら、下から順に「ソシレファ ラb ミ」になる。これが、たまらなくロマンチックなサウンドになるのだ。ピアノのある人はぜひ一回弾いてみて。弾いたら気がつくでしょ。かっこいい曲の、特に最後の方でエンディングの手前でこのコードが鳴り響くと、超素敵なサウンドになることを。ホントにロマンチックなサウンドになる。たまらない。
「ソシレファ ラb ミ」の「ラb」が「9b」、つまり「ソ」の音から上に短9度上がった音だ。これが調味料として加えられると、どういういいことがあるのか? それは、「ラb」は中途半端な音程だから、下の「ソ」に崩れ落ちようというエネルギーを秘めている。また一番上に「ミ」(一番下の「ソ」からすると実に13度上だ)が来るのは何か? これは私の思うに、このG7コードがくずれ落ちる(“解決”というのだが)先のCコード(ドミソ)の中で一番香りの強い「ミ」の音を先取りすることで、ドミソへの解決の予感をかもし出しているものと思う。「ソシレファ ラb ミ」と言うコードを、コード記号で書くとG7 b9 13という表示になる。
そして、ここからは、更に難しそうな話しになるが、「ソシレファ ラb ミ」、G7 b9 13は、G7(「ソシレファ」)にE(ミ ラb シ)という別のコードを足したものと考えることも出来る。要するに、G7にEというコードを重ねて弾くのだ。これがポリコード(複合和音)、更に難しく聞こえる専門用語ではUpper Structured Triad (UST;上に乗せた三和音)というらしい。まずピアノで、リバーブペダルを踏んで残響が出るようにし、左手でG7「ソシレファ」を弾きます。その後に残響が残る間に、右手でEコード(ミ ラb シ)を弾く。しかも、この右手のUSTのEコードは、オクターブ上げて次々に高いところに移りながらEコード、Eコードとピアノの鍵盤の右端に達するまで繰り返す。すごーく、ロマンチックでJazzyなサウンドがあなたのお部屋に響き渡ったでしょう。
しかも、アドリブでもこのUSTを使うやつがおるのです。普通G7のコードの時のアドリブは、通常のソラシドレミファソの音階を中心に所々半音をかませるのですが、いきなり、ミ ラb シ ミ ラb ソ ファ ミ なんていう音階が出てくると、超カッコいいが、なになに、これ?どうやって弾いていると思うだろう。私が大学でジャズを始めた頃、超有名ジャズピアニストのマッコイタイナーがそういう風に弾いているのを聞いて、何じゃこれ? と最初は思ったものだ。ポリコードもUSTも知らなかったが、レコードを聴いて、自分でそういうことなんだろう、、、と思って勝手に真似して弾いてた。それ以来、USTのカッコよさにはまったままだ。
Nat
これまでも魅惑のコード・コード進行について、あるいはジャズやボサノバが何故かっこいいのかについて書いてきた(2006年10月、2007年11月、2008年9月)。カッコいいコードについては、結構関心もって閲覧してくださる方が多いようだ。ということで、また少しだけこぼれ話しを書こう。
死んだら意識は消失する -- この仮説を支える人間の体験は:(ノンレム)睡眠中に意識が消えること。昏睡や植物人間の人に意識がなさそうに見えること。自分が生まれる前に自分があったとしてもそのことを全く覚えてない、つまり自分の脳が活動開始する生前には自分の意識はなかったこと。以上だろう。そして更に、「人間の意識は全て脳の情報処理の産物である」という医学的な「意識」の解釈を聞いて、それ以外に非物質的な意識の根拠を想定するのも「非科学的」な気がするからだろう。ということで、死んだら意識は消えるというのは有力な仮説である。
それが具体的にどういう感じの「私」の状態なのか、それが分かれば苦労はないが、死んでみないと分からない。しかし、それでは、現世からの仮説「死んだら今の意識は消失する」「そしてもしかしたら、生前を覚えてないのと同じように死後は無の状態になるかも知れない」の方が心の中で強くなりがちで、死ぬのが怖いということになり得る。信仰の世界では「結局分からないのだし、とにかく神の愛を信じて、どうなるかは全てお任せしよう」になる。しかし、私のような人間の悪いクセだろうが、それでもあれこれ考えるのである。
まず「死んだら今の意識は消失する」。これは、脳機能に支えられた「今のような意識」は脳死と共に消えるということであり、間違いなくその通りだろう。しかし、次の「死後は、生前を覚えてないのと同じように無の状態になるのでは」については推論に過ぎない。魂が肉体離脱することで、意識は別のモードに移行するのかも知れない。また、生前の記憶は顕在的には皆ないが、催眠術で生前の記憶に戻る事例報告は多い。生前の自分が例えば昔のインドの村の女の子であったという記憶と、インドの村の記録が合致している等という話しも多い。それはマユツバと切り捨てればそれで終わりだが。今の科学の力量では、死んだ後に意識が「脳意識モード」を脱したあと、どういう状態になるのか、無に帰するのか、次のモードに移行するのか、これは未だどちらとも結論出せないだろう。
そして、生命維持部分まで機能停止したら、脳死、そして暫く後に体も死ぬ。こうやって死が訪れる。死んでいくと意識がどうなるのか、というその1の冒頭に書いたテーマに戻ってくる。昏睡、植物人間、そして脳死と推移し、次第に意識は消失していくことを考えると、脳死で死に至るとそこで「意識」は終了、永遠の無に帰すると考えるのが最も自然である。意識は脳の産物だから、脳の死とともに意識も死ぬ。これが物質科学の論理的帰結だろう。だからこそ「死ぬと、人間はそこで終わり」と思う人も多い。
一方、人類はずっと昔から、死後に別の世界があるという強い思いをもってきた。現代の人間でもそういうイメージの人は多い。日本人でも論理的には「脳死で人間は終了」と思っていても、「死んだおばあちゃんが私を見守ってくれている」などと本気で思ったりもする。更に、物質科学がいかに幽霊の存在を否定しても、成仏し切れてない死霊が憑依霊や地縛霊になって人に感じられたり、心霊写真に写ったりする現象が体験されている。また、前にも何度も書いている通りの臨死体験、更には坂本政道氏が精力的に書いている「死後体験」シリーズで紹介されている米国モンロー研究所方式で肉体の拘束を解いた意識の展開の体験がある(当ブログの2005/10/18たましいの記事ご参照)。これらのことと、「脳死で意識の永遠の消失」説とはどう関係するのであろうか。
そして、覚醒時の思考と夢で大違いなのは、暗闇の穴の中での思考は、暗闇と静寂の中での思考だが、夢では脳が映画のように映像や会話のやりとりを脳内に投影してくれる点だ。肉体からの光や音などの外部刺激を脳が情報遮断している分、逆に思考する脳が思考に関係する映像などを創り出すということだろう。目が覚めた後で、夢で見た映像のリアルさに驚いたりする。脳の引き出しの中にデータとして保存されている画像を駆使して創造するのだろう。