というわけで、クリスチャンの人生は感謝に満ちていると思う。でも、もう一つ満ちているものがある。それは「希望」あるいは「待つ喜び」とでもいうべきものだ。
私のようにだいぶ歳をとってくると、これまでの人生、今の人生における神さまの愛への感謝が多い。一方、特にまだ若い人は感謝もさることながら、期待が大きいだろう。これから展開される「自分物語」において、神さまの愛がどのように表れるかとの期待、希望だ。どこの学校、大学などに進学することになっているのだろう? どこに就職し、誰と出会い結婚するのだろう? どんな子どもが生まれて来るのだろう? 定住する家はどこなのだろう? 私のはどんなストーリーなのだろう?
神さまを信じられない場合は、こういうストーリーは「偶然」の産物になる。確率の法則が、あなたへの愛も思いも全く込めずに、あなたの運命を決めていくのだからたまらない。怖い。あなたは、突然、何の意味もなく、交通事故に会う筋書きかも知れない。それも単に運が悪いだけという整理になる。そうなると、人生、「わくわく」というより、緊張と不安に満ちたものになる。あるいは明日を忘れてせつなに生きたくもなる。
一方、神さまが自分物語を自分への愛をもって書いて下さっていると信じる場合は、わくわく興奮。そして読み進むうちに、どんな思いがけぬストーリー展開になっても、愛を信じて読み進むことが出来る。テレビなんかのサスペンス物語も、思いがけぬ展開のあるほうが面白い。大事なのは、物語全体のテーマが「あなたへの愛」であるかどうかだ。それを信じる限り、最後までわくわく読み進める。
しかし、人生の物語は、我々が期待したことが、期待したタイミングで起こることは少ない。それこそ、人間から見ると、確率現象にしか見えないようになっているのだから。例えば結婚願望をもっていても、神さまが用意した相手に会う時が来るまで、相手には会えない。それがいつかも分からない。一生、そういうことはないストーリーになっているのかも知れない。それでも私たちは、神さまに自分の希望を祈る。神さまが私たちの希望通りに、いいなりにはなってくれないのを知りつつも、神に祈るのだ。これは親と子の会話と同じだ。親が子のせがむ通りにしてくれなくても、大事なのは、親子の間の心の交流、信頼だからだ。
イスラエル民族をエジプトでの奴隷状態から救い出し、今のイスラエルであるカナンの地に誘導するまでの40年、指導者モーセは、常に祈った。そして、約束の地カナンを心に描き、期待をもって生きた。しかし、神は、モーセには、カナンの手前で人生を終える筋書きを与えた。モーセは未だ先にある見えないカナンに、人々が到着する姿を夢見ながら、神への深い感謝をもって人生を終えたのである。
このようにクリスチャンの人生は、将来を夢見、希望をもってわくわく生きるものだ。そして、筋書き展開がどうであろうと、そこには常に感謝がある。私はそう思う。 Nat
神を信じて生きていることで、人生は大きく変わったはずだ。でも、どう変わったのかは人間には全く分からない。でも、変わっているのだと信じて生きる。というのがクリスチャンの生き方。この結果、毎日の雰囲気はどうなるのか、私の感じで述べてみたい。
何度か書いてきたが、私の右目は重症網膜剥離でペケだ。左目も中央に大きな硝子体混濁(飛蚊症のひどいの)が行き来する。仕事でパソコンを多用するが、見えにくいこと甚だしい。いかに慣れても非常に感じ悪い。ここで、神に「何の恨みがあって、僕の目を悪くしたのか?」と迫るのも手だろう。しかし、私の場合、そんなこと思ったこと一回もない。目の不自由なNatこそが、唯一本当のNatだ。神さまが、ある年以降の私に用意してくださった場面設定は、目の悪い状況で何とか生きる人間という筋書きだ。
もし、誰かあなたを心から愛する人が、あなたに心をこめた贈りものをくれたとする。それはあなたが期待していたものとは全く違うものだった。でも、それが愛の贈り物である限り、それがどんなに、あなたの趣味とは違うものでも、どんなに期待した機能をもったものでなかったにしろ、それはあなたにとって一生モノの贈り物にならないであろうか。私の目は、今の状態のままで、神さまの私への愛の贈り物なのである。
このように、神さまの愛の中に生きる時、人生はまず全て神さまの愛のプレゼントになる。そして、毎日の神さまへの祈りは、もっぱら感謝、感謝だ。
すごく、変でしょう。「全く分からないご利益(りやく)」だけど、「最高のご利益(りやく)」と信じているということなのです。
神とそういう絆でつながって生きる人間の人生を、神が「悪いようにする」わけがない。これが信仰である。しかしながら、それは神が、神の次元で、神の方法とタイミングで、人間に対して与える「愛の人生の物語展開」なのであって、人間が勝手に望む物語とは全然違う。たとえて言えば、TVドラマで、放送局が視聴者の声を聴取しているのがあるが、放送局は視聴者の思うように筋書き展開するとは限らない。しかし、だからといって、放送局側が視聴者を馬鹿にしたり、無視していると言えるだろうか。いいドラマは視聴者のいいなりになんか、ならない。それと似ている。神が人間のいいなりになると思う方がおかしい。
神の愛を信じたらどうなるのか? もし信じなかった場合、自分がたどっていたであろう別の自分というものは分からない。だから、信じた結果、自分にもたらされた「違い」は誰にも分からない。アメリカで真剣に統計的実験した人たちがいる。申し訳ないが滑稽だ。だから私は言う。信じた結果の「ご利益(りやく)」の中身は全く分からない。それでも私は言う。私の人生は、全体として、神の「Natへの愛の物語」になっているに違いない。信じてないNat、神と繋がってないNatの辿っていたであろう別の人生と、実際のこの人生は、全く違う人生のはずだ。どう違うのかは全く分からなくても、絶対に違う。こう信じて、喜んで生きるのが、クリスチャンという人種だ。おメデタイかも知れない。でも、もうこれはやめられない。 Nat
むかし、日本にキリスト教宣教師が来て、日本にもキリスタンが多く生まれた。地域によるが、ご存知の通り、大名から農民にまで広がった所もあった。しかし、その信仰の中身はどうか。非常に多くのキリスタンの信じたことは、西洋人のもたらした「新しい神」を信じてみると、これまでにない、何かとてもいいことがあるような気がしたというようなことであったようである。
そもそも、日本は仏教伝来以来、神道の神=八百万の神に加えて、中国・朝鮮伝来の新しい神=仏を、神々の仲間に新たに加えて受容したという歴史がある。キリスト教の時もそうだ。日本人は、神や仏は幼い頃から信じている。しかし、今、西洋人がキリストという神を説いている。もしかしたら、それのほうがもっと効き目があるかも知れないので、それも加えてみようか。そのように期待した日本人キリスタンが多かったようなのである。要するに、家の仏壇や神棚もそのままにして、加えて、十字架マークのキリストをも取り入れてみたという人たちだ。それがゆえに、キリストを信じたのに病気になったとかで、壁に貼っていた十字架とキリストの名を書いた紙を破り捨ててたとかいった事例が多くあったようである。
これまでのユダヤの考えでは、下層の民、嫌われ者集団の人たちが神に許され受け入れられるためには、自分の力で上に這い上がり、これまでの「罪」を赦してもらうための大きな対価を神に捧げ、そして、改めて掟を守る人に変身するしかないということであった。しかし、一旦、底にまで落ちた者、最初から底に生れついた者には、そんなことは不可能だったのだ。ところが、そこに登場したイエスという人は、驚くべきことを述べ、そして行動した。
彼はいう「神はそのようなあなた方を、そのまま愛してくださっているのだ。そして、私は、そのような神の愛の手を、あなた方に差し伸べるために世に送られてきたのだ。」 それは、“過去の全て清算する償いをすれば赦してやろう”ではない。“お前らが生まれ変ったら、受け入れてやろう”でもない。「もともとあなた方は神に創られた大切な命なのだ!神はそのような命が失われてしまうことを決して望んではいないのだ。あなたはそのままで愛されているのだ。」これが、イエスが発した強烈なメッセージである。そして、イエスは彼らと共に食事をする。この愛に接して、結果的に、下層の民、嫌われ者は変えられていったのである。何ら見返り条件のない愛。人をそのままで絶対的に愛する神の愛が示された時、変わるはずのないと思われた人たちが、変わった、いや変えられたのである。