♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)
生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等
2008年10月
2008年10月25日
14:45
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信じて生きている事
神を信じると、何かいいことあるのか? その4
というわけで、クリスチャンの人生は感謝に満ちていると思う。でも、もう一つ満ちているものがある。それは「希望」あるいは「待つ喜び」とでもいうべきものだ。
私のようにだいぶ歳をとってくると、これまでの人生、今の人生における神さまの愛への感謝が多い。一方、特にまだ若い人は感謝もさることながら、期待が大きいだろう。これから展開される「自分物語」において、神さまの愛がどのように表れるかとの期待、希望だ。どこの学校、大学などに進学することになっているのだろう? どこに就職し、誰と出会い結婚するのだろう? どんな子どもが生まれて来るのだろう? 定住する家はどこなのだろう? 私のはどんなストーリーなのだろう?
神さまを信じられない場合は、こういうストーリーは「偶然」の産物になる。確率の法則が、あなたへの愛も思いも全く込めずに、あなたの運命を決めていくのだからたまらない。怖い。あなたは、突然、何の意味もなく、交通事故に会う筋書きかも知れない。それも単に運が悪いだけという整理になる。そうなると、人生、「わくわく」というより、緊張と不安に満ちたものになる。あるいは明日を忘れてせつなに生きたくもなる。
一方、神さまが自分物語を自分への愛をもって書いて下さっていると信じる場合は、わくわく興奮。そして読み進むうちに、どんな思いがけぬストーリー展開になっても、愛を信じて読み進むことが出来る。テレビなんかのサスペンス物語も、思いがけぬ展開のあるほうが面白い。大事なのは、物語全体のテーマが「あなたへの愛」であるかどうかだ。それを信じる限り、最後までわくわく読み進める。
しかし、人生の物語は、我々が期待したことが、期待したタイミングで起こることは少ない。それこそ、人間から見ると、確率現象にしか見えないようになっているのだから。例えば結婚願望をもっていても、神さまが用意した相手に会う時が来るまで、相手には会えない。それがいつかも分からない。一生、そういうことはないストーリーになっているのかも知れない。それでも私たちは、神さまに自分の希望を祈る。神さまが私たちの希望通りに、いいなりにはなってくれないのを知りつつも、神に祈るのだ。これは親と子の会話と同じだ。親が子のせがむ通りにしてくれなくても、大事なのは、親子の間の心の交流、信頼だからだ。
イスラエル民族をエジプトでの奴隷状態から救い出し、今のイスラエルであるカナンの地に誘導するまでの40年、指導者モーセは、常に祈った。そして、約束の地カナンを心に描き、期待をもって生きた。しかし、神は、モーセには、カナンの手前で人生を終える筋書きを与えた。モーセは未だ先にある見えないカナンに、人々が到着する姿を夢見ながら、神への深い感謝をもって人生を終えたのである。
このようにクリスチャンの人生は、将来を夢見、希望をもってわくわく生きるものだ。そして、筋書き展開がどうであろうと、そこには常に感謝がある。私はそう思う。 Nat
2008年10月22日
23:35
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信じて生きている事
神を信じると、何かいいことあるのか? その3
神を信じて生きていることで、人生は大きく変わったはずだ。でも、どう変わったのかは人間には全く分からない。でも、変わっているのだと信じて生きる。というのがクリスチャンの生き方。この結果、毎日の雰囲気はどうなるのか、私の感じで述べてみたい。
何度か書いてきたが、私の右目は重症網膜剥離でペケだ。左目も中央に大きな硝子体混濁(飛蚊症のひどいの)が行き来する。仕事でパソコンを多用するが、見えにくいこと甚だしい。いかに慣れても非常に感じ悪い。ここで、神に「何の恨みがあって、僕の目を悪くしたのか?」と迫るのも手だろう。しかし、私の場合、そんなこと思ったこと一回もない。目の不自由なNatこそが、唯一本当のNatだ。神さまが、ある年以降の私に用意してくださった場面設定は、目の悪い状況で何とか生きる人間という筋書きだ。
もし、誰かあなたを心から愛する人が、あなたに心をこめた贈りものをくれたとする。それはあなたが期待していたものとは全く違うものだった。でも、それが愛の贈り物である限り、それがどんなに、あなたの趣味とは違うものでも、どんなに期待した機能をもったものでなかったにしろ、それはあなたにとって一生モノの贈り物にならないであろうか。私の目は、今の状態のままで、神さまの私への愛の贈り物なのである。
幸いというか何というか、まだ両手や10本の指は一応動く。しかし、ある日神さまはそれを変えて、私の指の2、3本動かなくしてしまうかも知れない。そうなると、もともと上手でもないピアニストであったNatだが、今度は独特の弾きかたを探求する新しいNatに進化することになる。このように、神さまが私たちに下さる場面設定を「神さまの愛のプレゼント」と信じ切るとき、それがどんな展開になっても、「ほ~~~?!今度はこれかあ!」と思うだけだ。事実、私の右目の網膜剥離は20年くらい前だが、加えて左目が軽症剥離の結果、残された左目にもややこしい硝子体混濁が発生したのは、1年くらい前のある朝。その時、本当に「おっ。神さま。今度は、左目もなのね!!よっしゃ。今度はそれで行きましょうね!」と瞬間的に思えたのである。医者に行ったら「それは、ちょっと直りません」という。私は「そうでしょうね」と答えた。
このように、神さまの愛の中に生きる時、人生はまず全て神さまの愛のプレゼントになる。そして、毎日の神さまへの祈りは、もっぱら感謝、感謝だ。
お願いは少ない。感謝が多いから。Nat
2008年10月18日
13:26
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信じて生きている事
神を信じると、何かいいことあるのか? その2
「神を信じると、何かいいことあるのか?何か“ご利益(りやく)”あるのか?」と聞かれると、私の答えは、ずばり『最高のご利益(りやく)がある』だ。次に「具体的にどういうご利益(りやく)があるのか?」と聞かれると、それへの私の答えは、ずばり『全く分からない』になる。
すごく、変でしょう。「全く分からないご利益(りやく)」だけど、「最高のご利益(りやく)」と信じているということなのです。
前にも何度も書いているのだが、以下の私の信じることをもう一度言う。
1.まず第一に、この世は神が創り、神が全てのことを支配していると思うということ。「宇宙の根源・精神」のようなものがあると思っているといってもいい。
2.第二に、神が創り、神が支配するこの世では、「不幸」「事故」「悲劇」と人間の思う事象が、確率現象的に、随所で勃発する構造になっているということだ。何故だ?なんて、人間がいってもしょうがない。我々が生まれてきたこの世、少なくとも「エデンの東」はそういう世界なのだ。今日も誰かが交通事故で死ぬ。誰かが詐欺に会い全財産を失う。誰かが心臓麻痺になる。それが人間の住む世の現実だ。
3.第三に、ここからがキリスト教信仰の世界だが、それでも神は愛である。苦しく不条理な「エデンの東」だからこそ、神の愛の意味が大きい。そして、神の愛に目覚め、その愛に心が繋がって生きる人間と神の関係は、何ものにも犯すことの出来ないくらいの強い絆となる。
神とそういう絆でつながって生きる人間の人生を、神が「悪いようにする」わけがない。これが信仰である。しかしながら、それは神が、神の次元で、神の方法とタイミングで、人間に対して与える「愛の人生の物語展開」なのであって、人間が勝手に望む物語とは全然違う。たとえて言えば、TVドラマで、放送局が視聴者の声を聴取しているのがあるが、放送局は視聴者の思うように筋書き展開するとは限らない。しかし、だからといって、放送局側が視聴者を馬鹿にしたり、無視していると言えるだろうか。いいドラマは視聴者のいいなりになんか、ならない。それと似ている。神が人間のいいなりになると思う方がおかしい。
だから、クリスチャンになったら、クリスチャンだけは大学受験に優先的に受かるのか?とか、祈ると直ぐに風邪が治るのか?と思う方がおかしい。高校生が神を愛と信じて、明日の入学試験に受かるようにと祈った。ところが、神の描いた物語は、風邪で40度の熱が出て試験を受けられず、1年浪人を強いるというものだった。そこで、「なんだ!信じても、何のご利益(りやく)もないじゃないか!?」と怒るのか、それとも、「ああ今回、神さまの描いた物語は、こうなのね? 一見意味不明だけど、そうなんだ。でも神は私の人生を愛で満たしてくれるのだよね。」と思うかの違いだ。
神の愛を信じたらどうなるのか? もし信じなかった場合、自分がたどっていたであろう別の自分というものは分からない。だから、信じた結果、自分にもたらされた「違い」は誰にも分からない。アメリカで真剣に統計的実験した人たちがいる。申し訳ないが滑稽だ。だから私は言う。信じた結果の「ご利益(りやく)」の中身は全く分からない。それでも私は言う。私の人生は、全体として、神の「Natへの愛の物語」になっているに違いない。信じてないNat、神と繋がってないNatの辿っていたであろう別の人生と、実際のこの人生は、全く違う人生のはずだ。どう違うのかは全く分からなくても、絶対に違う。こう信じて、喜んで生きるのが、クリスチャンという人種だ。おメデタイかも知れない。でも、もうこれはやめられない。 Nat
2008年10月14日
22:36
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信じて生きている事
神を信じると、何かいいことあるのか? その1
前回、2回に分けて書いたとおり、日本人にとって神とは、守護神、自分を護ってくれる神だ。それは、「死んだ、自分のおじいちゃん」であったり、神社に祀られている菅原道真であったり、あるいは仏教の菩薩様でもいい。信じるものを護るのが、日本の神だ。一方、キリスト教は、「神は愛なり」などというから、日本人の心情には直ぐにはぴんと来ないとも書いた。
むかし、日本にキリスト教宣教師が来て、日本にもキリスタンが多く生まれた。地域によるが、ご存知の通り、大名から農民にまで広がった所もあった。しかし、その信仰の中身はどうか。非常に多くのキリスタンの信じたことは、西洋人のもたらした「新しい神」を信じてみると、これまでにない、何かとてもいいことがあるような気がしたというようなことであったようである。
そもそも、日本は仏教伝来以来、神道の神=八百万の神に加えて、中国・朝鮮伝来の新しい神=仏を、神々の仲間に新たに加えて受容したという歴史がある。キリスト教の時もそうだ。日本人は、神や仏は幼い頃から信じている。しかし、今、西洋人がキリストという神を説いている。もしかしたら、それのほうがもっと効き目があるかも知れないので、それも加えてみようか。そのように期待した日本人キリスタンが多かったようなのである。要するに、家の仏壇や神棚もそのままにして、加えて、十字架マークのキリストをも取り入れてみたという人たちだ。それがゆえに、キリストを信じたのに病気になったとかで、壁に貼っていた十字架とキリストの名を書いた紙を破り捨ててたとかいった事例が多くあったようである。
また、日本にキリスト教を伝えた方にも、ある意味で問題がある。1549年、イスパニア・イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島にキリスト教布教のために上陸した。一方、欧州では、宗教改革のルターがヴィッテンベルク城教会の扉に、贖宥状の販売などで堕落し変節した中世カトリックを断罪した95か条を貼り出したのが同じ頃の1517年。ルターが批判したように、そもそも日本にもたらされたキリスト教は、ご利益(りやく)宗教的な偏りをもっていた中世カトリックなのである。伝える宣教師も、ご利益(りやく)でも何でも、信者の数を増やしたほうが勝ち。そして、それを受ける日本人は、そもそも、神でも仏でもキリストでも、効き目が肝心という文化だから、上記のような、「ご利益(りやく)キリシタン」が生まれた。
それでは、私をはじめとする、現代のクリスチャンは、ご利益(りやく)を信じているのでないとすると、いったい何を信じているのだろうか。「神の愛」? なんだ、それ? それって、何かいいことあるの? そういう基本的問いがまずあってしかるべきだろう。 ここからは次回。 Nat
2008年10月01日
23:05
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信じて生きている事
神って愛? その2
キリスト教は、ユダヤ教から派生しているので、日本などでは混同されがちだが、実は本質的に違う。
ユダヤ教のように、神と「お約束」して、神の掟を忠実に守って生きることのできるのは、ユダヤ社会でも上層部である。下層貧民や、世の嫌われ者集団(税金徴収役の取税人)などは、掟に忠実に生きてはいられない。上層部からすると、そういう人たちは、神にも上層部の人間にも見捨てられるべき「罪人」なのである。日本でも、士農工商の下に被差別階級を置き、彼らに対する優越感・差別意識が、階級秩序を維持する力学を生んでいた。それと同様、下層の「罪人」は、ユダヤ社会の上層部の自己美化の格好の材料であったわけである。
これまでのユダヤの考えでは、下層の民、嫌われ者集団の人たちが神に許され受け入れられるためには、自分の力で上に這い上がり、これまでの「罪」を赦してもらうための大きな対価を神に捧げ、そして、改めて掟を守る人に変身するしかないということであった。しかし、一旦、底にまで落ちた者、最初から底に生れついた者には、そんなことは不可能だったのだ。ところが、そこに登場したイエスという人は、驚くべきことを述べ、そして行動した。
彼はいう「神はそのようなあなた方を、そのまま愛してくださっているのだ。そして、私は、そのような神の愛の手を、あなた方に差し伸べるために世に送られてきたのだ。」 それは、“過去の全て清算する償いをすれば赦してやろう”ではない。“お前らが生まれ変ったら、受け入れてやろう”でもない。「もともとあなた方は神に創られた大切な命なのだ!神はそのような命が失われてしまうことを決して望んではいないのだ。あなたはそのままで愛されているのだ。」これが、イエスが発した強烈なメッセージである。そして、イエスは彼らと共に食事をする。この愛に接して、結果的に、下層の民、嫌われ者は変えられていったのである。何ら見返り条件のない愛。人をそのままで絶対的に愛する神の愛が示された時、変わるはずのないと思われた人たちが、変わった、いや変えられたのである。
キリスト教はここに尽きる。そして、神はすべての人への愛を究極的にさし示すために、神の子イエスを、みなの代わりに十字架につけたのである。誰も、自分の過去を清算するためだからといって、みずから十字架に付く人はいない。神の子みずから、人の代わりにそれをした。それくらい、神は、人の命をあるがままに愛されている。そして、愛を知った人は、その愛により変えられていく。これがキリスト教の核心的メッセージである。
日本人には、このような「愛」は、最初はピンと来ないかもしれない。しかし、誰かが、頼みもしないのに、あなたのために、身を犠牲にしてあなたを守ろうとしたとすると、それを知ったあなたは、深く感動しないであろうか。キリスト教は、あるいは、聖書は、神はあなたにとって、そういう存在なのだということを語りかけている。それを「愛」という。言葉づかいとしては「愛」でなくてもいい。神が私たちを、ありのままでまず受け入れ、自らが犠牲になってもいいほどに大切にして下さっているという思い、これが聖書のメッセージだ。私は、このメッセージは、日本人である私たちでも、その心に届いたとき、確実に私たちを変えるものと思う。 Nat
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