何回か地球温暖化と炭酸ガスの関係を書いたが、今ひとつ皆さんも釈然としないだろう。もう一度、何がウソで何がホントか、何が分からないかを整理したい。
まず、何度も書いてきた通り、地球は数万年のサイクルで氷期と間氷期の周期を繰り返している。というか、ほとんどの時は年中が真冬のような氷期で、数万年に一度、何かの原因で暖かい時期がくる。氷期と間氷期の気温差は約10度、海水のレベル差は100メートル。今の温暖化を考えるにしろ、まず地球はこうやって10度の気温上下を繰り返してきていることを基本として念頭に入れないといけない。
次に問題は、この10度の上下変動の原因だ。地球の自転軸の傾きや地球の太陽周りの公転軌道の微妙なずれで、太陽の熱の影響度合いが変化するのが主因という説が有力なようだが、太陽の活動の変動を言う人もいる。これが今ひとつすっきり分からないので困る。そして、ここからが大問題の「温暖化ガス」の影響だ。メタンなどの温暖化効果は強くても少ししかないものは除くと、結局、水蒸気と炭酸ガスが温暖化ガスということになる。ここで、ややこしいのは、地球の温度が上がり海水温度が上がると海水が水蒸気も炭酸ガスも放出し、両方が増えるということだ。このため自転軸のずれなどで地球の温暖化が始まると、温暖化ガスも増える。その結果、温暖化が加速するという循環構造になっているのだ。これも基本の2として、しっかり頭に入れておく必要がある。

さてその結果、今、問題にされている炭酸ガスだが、氷期には大気中に200ppmくらいあるのが、今のような間氷期には、温まった海水から炭酸ガスが放出されて280ppmくらいになる。海水は大気の炭酸ガスの60倍くらいを溶かして込んでいる炭酸ガスの貯蓄庫のようなものだ。温かくなると、このように炭酸ガスを大気に放出する。ということで、地球の大気は気温の上下に応じ、200~280ppmの炭酸ガスの変動を何度も繰り返してきた。これも基本の3として頭に入れておきたい。
ここから現代になる。200年前から、280ppmだった炭酸ガスが次第に増加。今では380ppmにまで増えてしまった。これの原因は何か。ここが大問題。問題の一つ目で、確かに工業化で人間が放出した炭酸ガスも多い。しかし、実は人間が突出的に放出した炭酸ガスは、本来は二つのものが吸収してくれる。海水と、植物だ。海水による吸収は確かにあって、実際に今でも100ppm分くらいはそれで減っているという。つまりそれがないと今頃480ppmになっている頃だという。もう一つの、植物。本来は温暖になると植物が増殖して炭酸ガスを吸収して調整効果を発揮する。しかし、ここが問題の二つ目だが、人間が植物(森)を破壊してきたのだ。今、380ppmにまで増えたのは、人間が放出したせいか、人間が植物を減らしたせいで海水だけでは人間の排出した炭酸ガスを吸収できなくなっているからか。ここが、問題の核心である。そして、それが学者によっても、すっきりしない。
ということで、もう一度整理すると、炭酸ガスが380ppmにまで増えた原因は、(1)地軸変動などの別の原因で地球が温暖化傾向になり始め、海水が炭酸ガスを放出し始めていたこと、(2)そこに人類の炭酸ガス放出が加わったが、(3)本来はその分くらいは植物が吸収してくれるはずなのに、人類が森林を破壊したのでそれが欠落している。ということになる。どうも人類史上初めての高レベルである380ppmまで上がった主因は、(2)が「きっかけ」とは言え、(1)と(3)が根本原因と思われる。要は、100年で気温が0.7度上昇、炭酸ガスも(水蒸気も)その結果増えてきた分、温度上昇加速気味になるのは従来からのパターン。しかし、今回異常なのは、それに歯止めをかける植物がいないということだろう。 このつづきは次回。 Nat
オニヒトデが大量発生すると、その地域のサンゴは壊滅的打撃を受ける。なぜオニヒトデが大量発生したりするかは良く分からない。それも自然の中で、自然なこととして起こっているものではないのか。そして、サンゴとオニヒトデは何千万年もそういう関係で、互いに減ったり増えたりしてやってきたのではないのか。オニヒトデの異常発生なんていうが、人間が見て勝手に「異常」と決め付けているだけで、サンゴからすると、とっくの昔から、そんなことは織り込み済みのことではないのか。
自然保護は大事なことだとは思う。しかし、実際に「自然保護運動」として為されていることで、ほんとうの意味で自然保護なのかと、素朴な疑問を感じこともある。
しかし、私の疑問はこうだ。そもそも前に書いた通り、地球温暖化と炭酸ガスの増加は、そもそもどちらが原因でどちらが結果かも良く分かっていない。ところが、人類の出す炭酸ガスに関係なく、もともと地球は地軸や太陽活動の影響で、数万年のサイクルで氷期・間氷期を繰り返してきている。氷期と間氷期の間で、温度は10度ほども上下する。海水のレベルは100メートルほども変わる。ここ100年間で気温は何らかの原因で0.7度ほど上がってきているようだが、地球が繰り返してきている温度変化は0.7度なんてもんじゃない。数万年サイクルだが、10度もの上下を何万回も繰り返してきているのだ。
例えば、癌の検査の予約をしたとしよう。検査してくれる病院は本当に信頼できるのだろうか? もしそういう「不安」があるなら、早速調べて、もっといい病院に乗り換えればいい。その上でもなお「不安」があり得るかも知れない。「検査の結果、悪性と出たら、どうしよう?」。 なるほど、その場合、手術は早いほうがいいか。それなら、悪性と出た場合に直ぐ入院できるよう、手術の上手な病院を予め調べておくといい。それもやった。それなのに、なお「もし悪性だったら、どうしよう?」という「不安」が心を離れない。「今、この瞬間も癌細胞が増殖中かもしれない。」そう思うと、いてもたってもいられない。そう思うなら、それが「不安病」というものだろう。
「不安」に思って、癌細胞が減るなら、うんと不安に思えばいい。しかし「不安」に思って癌が縮小することは一切ない。むしろ、精神の不安定は、体の免疫・治癒力を阻害する。だから、検査の日までは、それ以上癌のことを考える意味は全くない。「今」を楽しく明るく生きているのが正解だろう。それでも、人間というものは、そんなに理詰めで動くものじゃない。癌かも。。。と思うと、理屈を超えて不安になるのだよ!と反論されそうだ。
もう一つ困るのは、将来で懸念されることへの対応策が結局ない場合だ。年金をかけてなくて、結局老後は殆ど収入がない。今さら対応策もない。あるいは、悪性の癌があって、もうどうにも治らない。こういう「手の打ちようのない」場合、不安がある方が当たり前ということになるのだろうか。う~~~ん。難しいが、どうにもならない場合、却って「不安」を感じてもしょうがないのではないだろうか。開け直っても活路はないかも知れないが、ぐじゅぐじゅの不安病の中にいても意味もない。またその分、余計に人生がつまらないだろう。「パワー・オブ・ナウ」の本でも、そういう場合は「悟り的に状況を受容する」ことを説いている。でも、なかなか、それが出来ないから困る。
このように、人間はどうしても明日のことをぐじゃぐじゃと懸念する存在だ。動物と決定的に異なり、明日を懸念できる知能によってここまで進化したのだから、その副産物として懸念が「不安」心理を生むこともあろう。しかし人間にはもう一つ動物と違うことがある。それは、自分や動物の命を創った神の存在を想う能力もあることだ。
を確信して生きる時、初めて、将来のことは神に委ねることができるのではと思う。もちろん、それでも、癌の疑いがあるなら、神に委ねる前に検査など人間に与えられている対応策は全て打つべきだ。また残念ながら、対応策がないこともあろう。どちらの場合も、究極的に思い悩むことはない。人間から見た将来の顛末がどうなろうと、愛の神が、神の観点からして「悪いようにするわけがない」と信じ切る。そして愛の神に任せればいいのだから。私はそう思う。
私はビジネスマンなので、金曜日に家に帰ると、その週のビジネスは一旦終了。ところが、金曜の帰りの電車の中などで、ふとビジネスの対応に穴があったことに気がつくことがある。しかし、通常のビジネスでは相手も土日は休みだから、穴は月曜に埋めれば足りる。穴は空いていても、そのことは土日にはさっと忘れて、「今」を生きるのがいい。ところがそれにも拘わらず、穴がどうにも気になって、金曜の夜自宅に帰ってからも、穴を埋めるための仕事をしようとあがく自分の心に気がつくことがある。無理にでも直ぐにそれをやらないと、土日中穴のことが心を離れないというわけだ。しかしこれが危険なのだ。本当に金曜の夜に自宅で仕事をするようになると危ない。土曜の朝には、また別の小さな穴が気になるかもしれない。こうやってノイローゼ的心理に陥るのだろう。月曜で十分間に合うことは、土日にやっても意味ないので、忘れているのが正解なのである。
もしかして、癌かも知れないということになって、癌センターで精密検査の予約をした。後は予約の日を待つばかりだ。予約の日までは楽しく暮らせばいい。しかし人間、そんな風にいくか!? という反論だ。それについて次回。 Nat