ということで、私は「神」や「たましい」を信じる人だが、私の周りにも「信じない人」というか「簡単には信じられない」という人は多い。たましいはまだしも、「神」は特に信じにくいということのようだ。どういう思いからそうなるのだろうか? 他人の頭や心の中は必ずしも見通せないが、多分こういうことが多いのかなと推察されるパターンを書いてみたい。
一つのパターンは、非常に慎重というか用心深いために、「信じる」などという、“いい加減な心の状態”に踏み切れないというものではないか。神が存在するという確実な証拠は全くないし、存在しそうだという「状況証拠」的なものすらも無い。あると信じる人も、一部の霊感に満ちた特別な人は例外として、普通は何かの体験や出会いから直感的にそう感じる・感じた、或いは自分の気持ちの問題として信じることに決めたということであって、それ以上のものはない。喩えで言うと、戦争に行った愛する人が戦地で生きているかどうかにつき確たる情報はないのに、「あの人はまだ生きていて、私のことを想ってくれている」と堅く信じているというのがある。神を信じるというのはそれに似ている。しかし、何事でも慎重にきちんと確認して生きてきている人であればあるほど、そういう根拠のないことに自分の人生を委ねることなど出来ないだろうと思う。
更に、そういう人が確認したくなる次の点は、神そのものがあるかどうかは直接確認できなくても、それを信じて祈った人に、果たしてその「効き目」があるのかどうかではないか。もし、効き目があるなら、存在は確認できなくても、信じる意味があるという訳だ。ところが、実はこれもすっきりしない。中には、懸命に祈った結果、自分のお母さんの病気が奇跡的に治ったなどという話もあるが、それは単なる偶然かも知れない。また、クリスチャンで祈り続けていた人が、若いのに癌で死んだなどと聞くと、祈りなんて効かないという感じにもなる。更に、私のようなクリスチャンに言わせると「そもそも神が人間のいいなりになるわけがない。神の愛は人間の思うことと次元が全然違うのだから。しかし神が我々の祈りをしっかり受けとめてくれていることだけは信じられる」等ということになるので、効き目の検証という意味では何が何だか分からなくなってしまう。
ということで、疑っていて、俄かに信じられないという人には、何ら決定的な証拠も、効き目の検証も与えられない。それにも拘わらず、なぜか信じて生きている私のような人間が存在するという事実だけが残るのである。それで多分「人は人、自分は自分」と整理して終わりということになるのであろう。
これが、「信じる人」側の私から勝手に推量した「信じない人」の心の過程だ。一方、信じる人からすると、一つ、信じないで生きている人について、もはやしみじみとは理解できなくなったことがある。それについては次回。 Nat
その4で述べた私の「もう一人の誰か」とは誰か? 答えから言うと、聖書の中のイエスという人である。まあ神の子とも言われた人だから、多分、「父に加えて、もう一人の誰か」などという表現は順位が逆だろうが、意識の中では、その順に心に突き刺さってきた。
なんといっても牧師の息子で赤ちゃんの時から教会に行っていた私だから、子どもの頃の「イエスさま」は目に見えないけど、いつも私を守ってくれる菩薩さまのようなイメージだった。それがモノゴコロついて一旦教会を離れて、また戻った時にどうであったかというと、子どもの頃の菩薩さまイエスとはまた別の形で心に迫ってきたのであった。新約聖書の語るイエスは、とにかく多くの人間を根底から揺り動かし、新しい人間に変えている。毎日岸辺で漁をしているだけであった無学なペテロ。税金徴収兼ピン撥ね業のボスで、心のすさんでいたザアカイ。心も体も穢れてしまっていた罪の女マグダラのマリア。イエスの隣の十字架に張り付けにされていた一人の死刑囚。そしてイエスの復活の後に今度こそ決定的に突き動かされた弟子たち。幻の中で復活のイエスに劇的に出会うパウロ。みな、イエスという人との出会いで、それまでの生き方を根底から揺り動かされて、新しい人間に生まれ変わっている。それほど、人を揺り動かしたイエスのエネルギー・パワーはどこから来たのか?イエスに会い、自分を根底から変えられた人たちは皆、イエスのパワーは、「神の一人ひとりへの愛」が形となり、ほとばしり出たものだと強く感じたのである。
そのように感じた人たちが、感じたことを書き記したのが新約聖書だ。新約聖書は、イエスの愛のパワーの書物なのである。再び教会に戻った私が再発見したイエスは、私の菩薩さまでもあったが、それよりも、2000年前の人たちを揺り動かした愛のパワーの人であった。そして、その愛のパワーが、今もいささかも減衰することなく、心でイエスに出会う人に伝えられている。私は、この愛のパワーに出会ったわけである。
ところが、その父が脳腫瘍で死に向かう。そのことが分かった時、何故だろう。不思議な衝動が私を襲った。父のようにクソまじめに神さま・イエスさま等と言っているのはアホラシイと、多少とも反発していたのだが、その父がこの世からいなくなると決まれば、急にそれが変わる。教会に戻らないと自分という人間はダメになってしまう。突然そう強く感じた。それで驚く妻を強引に誘って突然近所の教会に通い始めたのである。以来、結局、別の教会だが、今行っている教会の役員にまでなり、今日に至るのだ。牧師になった父と出会い、反発し、そしてその父の死に接し、またゴムボールが跳ね返るように教会に戻ったのだから、なんと言おうが、悔しかろうが、全てが父の影響であったことは間違いない。信じて生きた人生を今終えようとしている父を前にして、その父が一生かけて信じ抜こうとしたものを「アホラシイ」と切り捨てることは、私にはもはやとても出来なかった。むしろ、一生をそれにかけたことの重さが、私にどっしりと覆いかぶさって来ていた。私は、その重さに突き動かされたのである。
神やたましいを信じるようになった体験や出会いは、人によって様々だ。信じる他の人との出会いがそれになることもある。自分が死に掛けた体験で、そうなる人は結構多い。また肉親や友の死に接して、深い思いを持つようになった人もいる。ある文学作品との感動的出会いがきっかけになる人もいる。場合によっては、音楽、例えばバッハのマタイ受難曲を聞いてバッハの信仰を聞いたという人もいる。深い山の中で霊気を感じたなどという人もいる。似たような体験としては、瞑想体験もある。実に様々だ。
まずそれは生き物の命だった。生き物の命が物質の仕組みとしてはどうなっているかということに関心を持ち、そもそも理科系だった私は分子生物学の本は色々読んだ。DNAやらミトコンドリアのことを幾ら理解しても、それは生命の物質的仕組みで「生命そのもの」を説明はしていなかった。そこで、地球における最初の生命の誕生、その後の進化につき、無数の本や理論を吸収した。しかし、前に詳しくこのブログでも書いたとおり、生物を物質の原理だけで説明しようとすればするほど謎が深まることが分かった。私はそういう精神の遍歴を経た後、単純な感受性に戻った。目の前にいる犬や小動物を手にとって見て接していると、どうしてもそれが物質で出来た成功なロボットのようなものとは思えない。物質としてはDNA・細胞のかたまりではあるが、そこに宿った、紛れもない「いのち」があるとしか思えなかったのだ。「いのち」があるのなら、「いのち」の源(神)があるに違いない。また物質として終わった後にも「いのち」の移っていく世界(たましいの世界)があってもおかしくはない。そのような直感が強く私の精神を支配するようになったのだ。妙なのだが、人間はぺらぺらと言葉をしゃべるので、却って「いのち」であると思って見つめる前に、うるさくしゃべる人間とかいったイメージが先に立つ。しかし、物言わぬ犬などを撫でていると、その犬が単に物体とはとても思えない。絶対に、どこからか「いのち」が与えられ、どこかに帰っていく「いのち」であると、しみじみ思うようになった。これが、やっぱりこの世界の奥底には、神とたましいの世界があると信じて生きるようになった大きな背景の一つ目だ。
でもこれだけではない。それを次回に。 Nat