2年ほど前に、このブログで思いつき的に「死んだらどうなる」という表題で短い文章を書いたら、今でもその記事が私のブログで最も閲覧の多い記事になっている。それだけ、「死んだらどうなる」ということについて、多くの人が真剣に関心を持っているということだろう。私はこのテーマについて「自殺の大前提」シリーズでも少し述べたが、改めてここで書いてみたい。
まず、「死んだらどうなる?」という問いに対して、最もすっきりした回答は「死んだら何もなくなる。無になる。」というものだろう。そして、その理由として最も多く言われるのが、第一に「意識は脳神経の作用で生じている。だから死んで脳神経が機能を停止したら、あなたの意識もそれでおしまい」ということだろう。そして第二に「あなたは生まれる前には意識がなかったでしょう。死ぬと、生まれる前に何の意識もなかったその状態に戻るのです」が来る。
この二つのことを言われると、「なるほどそうか。やっぱり死んだら何もなくなるんだ。」と思ってしまう人は多い。暫く前に「利己的DNA」という本を書いて有名になったリチャード・ドーキンズ博士が、何故か大変ムキになって、「人間の意識は死んだら消える。神などもない」と自著の本で書いているように、この問題を科学的に考えると「死んだら終わり」と思う人が結構多い。
そこで私は言う。まず「脳神経が機能停止したら意識も終わる」という仮説についてだが、ここで「意識とは何か?」が問題になる。実は近代・現代科学でもこれは大変難しい問いであって、すっきりした説明を出した学者を私は未だ知らない。意識が脳神経によって支えられていることは間違いない事実だろう。しかし、だからと言って「神経は脳神経の作用そのものであり、それ以上ではない」と言い切れるかというと、また別問題だ。そこで、ずばり質問。人間の脳と同じ機能を持つ電子的人工知能が数年後にでも完成するとする。何か質問すると一応人間と同じように反応するし知識もある。しかし、それは飽くまでも電子部品が高度に集積したものだ。いわばパソコンのお化け、高度の物体だ。そこでクエスチョン。そのパソコンのお化けに、あなたと同じような「意識」があると思いますか??? 私の答えは「No」。どんなに高度の人工知能を作ってみても、そこには「意識」も「命」も「たましい」もない。脳神経を緻密にマネした人工知能のロボットのようなものが出来たとしても、それは所詮「物体」だ。そこには我々と同じような「意識」はない。私はそう思う。あると思う人はコメントを下さい。私はその?で述べるが、無機物(人工知能)と、命のある私やあなたとの間には決定的違いがあると思っている。
次に「生まれる前には意識がなかったから、死んでも意識はなくなる」という主張。これは私も一瞬「そうだな」と思ったくらい尤もらしい。しかし、これにも「待った」がつく。確かに私などは、生まれる前の意識というか記憶は全くない。しかし、もし生まれる前の私の意識なり記憶が、この世に生まれるにあたり表面的な意識の上では消去される仕組みになっていたらどうだろう。パソコンで全てのデータを消したつもりが、実はプロに見させるとデータが回復できると同じように、前生の記憶を呼び戻すという話がある。催眠術で生前にまで戻るという実験が山ほどあるのもご存知だろう。そして、そういう催眠術での生前の記憶の呼び戻しで、前生に生きていた、例えばインドの村での歴史的な記録と、呼び戻された記憶とがぴったり一致するといったウソみたいな報道が良くある。これをデッチあげと思うかどうかは、あなたの勝手だが、少なくとも、こういう前生の記憶の事例があることは、「前生の記憶がないから、同じように、死んだら意識がなくなる」という主張に対する有力な「待った」となると思う。
このように、「死んだら消えてなくなる」という説の根拠は必ずしも磐石ではない。とすると、死んだらどうなるのか? ここからはその2で。Nat
まず目でみて可笑しくて笑えるもの。「ひょっとこ」の顔とか、ピエロとか、昔の無声映画の頃のチャップリンとか。これらは、人間が本来のちゃんとした状態から、確かに不完全でぎこちない方向に少しずれている。これは分かり易い。
一方、我々が一日で笑うことの大半は、漫談や冗談など言葉で言い表されたことだ。話が人間のある状態に関わるものである場合は、上記のベルグソン説がそのままよく理解できるが、「ずれ」の中身は実に多岐にわたる。例えば、あつかましい、いい加減、本能むき出し、子どものように振舞うというのもある。男が「そりゃ、男に抱かれたら気持ちわるいわな」なんていう「性の相手のずれ」もあれば、「お前、しぶとく死なんな」などという普通以上のしぶとさでもいい。これらが少しの“ずれ”に留まっていれば笑いを生む。一方、そのことを余りシリアスな表現で言うと、“ずれ”が大きく感じられ過ぎて、怒りやあきれにまで行ってしまう。だから軽妙な表現で“少しだけのずれ”、笑える程度のずれに留めて表現する必要がある。それだと可笑しく笑えるということだろう。
ただし、直接は人間の状態そのものの話ではないが、笑える話がある。例えば、「ウンコ味のカレーと、カレー味のウンコと、食べさせられるならどっちを食べる?」なんて話は、なんとなく可笑しい。笑ってしまう。何故だろう?まず「ウンコ」という言葉が何となく可笑しい。これもベルグソン説で説明できると思う。ウンコは恥ずかしい隠れたものだから、普通ウンコのことは人間の表には出てこない。そういうウンコの話が表に出るというのは、これまた、人間本来の状態から少しずれたことと言えるのだろう。だから、「ウンコ」という単語が出てくるだけで可笑しさを誘う。更に、上記のカレー味のウンコの話は実に究極の選択で、大いに悩む。しかし、悩んで選択したところで所詮無価値である。このように無価値なことで大いに悩まざるを得ないという人間の状態は、まさに「本来の状態からの少しのずれ」なのであろう。だから、この究極の選択の話は可笑しいのである。
ダジャレや語呂合わせはどうだろう?「このカレーは辛れえ(カレー)な!」なんてダジャレは何故可笑しいのか?言葉が似ているだけで笑える訳でもなさそうだ。思うに、多分これは、ダジャレの語呂合わせの前に、カレーを食べて辛いという風に顔をしかめる人間の状態が、本来からのずれであり、そういう光景が笑いを誘うための伏線になっているものと思われる。その上で「辛れえ(カレー)な」と語呂合わせで、その辛さへの他人の共感を軽妙に誘おうとするその行為が、きちんとした状態からのビミョウなずれと感じられるのであろう。だから単に似た単語を並べるだけでは余り面白くなく、それを人に投げかけて共感を誘うという構図が可笑しいのではないか。
このように笑いということについても、深く考えてみると不思議だ。でも笑いについて、こんなに真剣に考えることそのものが、ちょっとした「ずれ」で、可笑しいよね。 Nat
しかし、たとえば「歳をとってくると集まって出る話はまずは体の調子のことだよね」という一言は、そこにいる人の笑いを誘う。歳をとると体の話をするということは、普通だし、合理性もある。それでも、それは笑いを生む。自分もそうだという思いがある分、苦笑になるが。でも笑いは笑いだ。


