♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)
生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等
2007年07月
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2007年07月21日
23:21
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戦争と平和について
米軍基地のことをどう考えるか? その1
今度、若い人などの仲間で夏の特別プログラムとして横須賀の軍港見学に行く。海から至近距離で米海軍基地に停泊している軍艦などが見られる計画だ。間近に見た上で、皆で国際紛争と平和について話し合う。私を含めてその計画のスタッフをしているのだが、話し合いにおいても特に特定の方向に話し合いを誘導するつもりはない。特に若い人には、様々な考え方があり得ることを知ってもらい、その上で一人ひとりが自分の考え方を形成していって欲しいからだ。
というのも、米軍基地の問題は、結局、現在の世界において国際紛争にどのように対処すべきか、そこにおいて軍事力行使はどの程度容認されるべきか、その中で日本はどう振舞えばよいのか。このような問題に繋がっていることであり、しかもそれらの問題に対して、誰もが納得できるすっきりした解答を出すことは大変難しいからだ。
基地の町に住む人の直接的な反対の理由は分かりやすい。厚木等でのジェット機騒音などの物理的な被害。そして、沖縄等で米兵がもたらす様々な犯罪や迷惑行為。また、我々が今度行く横須賀では08年から原子力空母が来るので、船に載せられた原子炉の不安問題がある。一方で、雇用など基地のもたらす地元へのプラス面もあるが、それでも反対の声は当然根強い。しかし、単に迷惑だから反対というだけであれば、「基地はどこかには必要かも知れないが、自分の近くではなく、よそに行って欲しい」というような地元エゴ的に聞こえやすいので、大体、米軍そのものへの反対論とセットになる。つまり「米軍基地そのものに反対。日本に基地は要らない。米軍のイラク攻撃などの世界での覇権的行為に反対。」という具合に、米軍の動きそのものに反対する声と重なることが多い。
ということから、今度横須賀の基地を視る我々は、単に原子力空母が安全かどうかといったことを話し合うのに留まらず、いきおい、そもそも日本に米軍は必要か、米軍が日本から世界の様々な所に出動するのを日本としてはどの程度支援するのか、といった問題まで考えることになる。この問題に関して、最初から「もう自分はとにかく何でも反対」といった立場を決め込んでしまうならば、ある意味で簡単かも知れない。しかし、若い人が自分の頭と心で一から考えるのに、一緒に付き合うとなると、決め込みでは済まされない。一方で、我々は、軍事専門家でも国際関係論や国連の制度などの専門家でもない。しかし、人間として、皆自分の考えを持つ必要はある。というのが、今、私を含めて関係者が抱えている課題である。このブログで、次回以降、少し私自身の頭の体操をしてみようと思うので、もし宜しければ、皆さんのご存知の私の知っていない事実とか、私に抜けていると思われる発想など、何かあればご自由にコメントなどで教えて頂きたいと思う。 Nat
2007年07月13日
22:35
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信じて生きている事
教会って何なのさ? その6
前回書いたとおり、私たちの教会、特にジュニア・チャーチ(子ども・若者の教会)で17年前、礼拝のことを研究してみて、「本来の礼拝」を再発見した。礼拝は聖書の講話を聞かせる会ではなかった。神がみんなを招き、力と恵みを分け与える場だった。それは、イエスの時代の直後に、もはや目には見えないが共にいるイエスを信じた弟子たちが始めた生活や集まりと同じだ。皆でイエスを想い起こして語り合いながら、パンを分け合った、その集まりで弟子たちは神さまからの力を受けたのである。これを、今も続けること、これが本来の礼拝だったのだ。
このことが分かったので、皆でまず、ジュニア・チャーチの礼拝の進め方を、上記の「礼拝再発見」に沿って変えていった。そして、次には一般向けの礼拝のほうでも同様の変え方をしたのである。例えば、神の招きにしても、前から「招詞」という短い礼拝の初めの言葉があったが、私など、それを聞き飛ばしていた。そこで、「皆さんは一人ひとり名前を呼ばれて招かれてきました」と、平易な言葉で呼びかける、そういう礼拝にしていった。JCの礼拝では、私が作詞作曲した「招きに応える歌」を皆で歌うことになった。
その結果、「初めて教会に来てみたら、実はあなたも今日神さまに招かれて来たのですよ、と言われてびっくりしたが、それが後で本当にうれしかった。」という人が出てくるようになった。私自身も、礼拝に行くのが「神さまへのポイント稼ぎ」だったのが、「会いたいから惹かれて行く」に変わった。また、仕事などでシンドイことがあった時も、礼拝で神さまから力と恵みを分けてもらうと、不思議にも、すーっと体も心もリフレッシュされる自分に気が付くようになった。それって、すごいマインド・コントロールですね、という人がいるが、そうね。実際に礼拝の場に今もイエスがいて神の力と恵みを配るからそうなるのか、マインド・コントロールか、それは証明のしようがない。しかし私はそれで、Very happyだから、どちらでもいい。それくらい、「本来の礼拝」は心も体もリフレッシュされ満たされる場であったわけだ。また私たちの教会(横浜市の田園江田教会)の今の礼拝スタイルは、誰でもがそう感じやすいものになったと思う。
今も、教会では、多くのクリスチャンが昔からの表現として「今日も礼拝を守れた」「今日はXX先生の説教でXXを学んだ」と言う。それは間違いではない。しかし、礼拝はそれよりももっともっと豊かなものだったのだ。「招かれていく礼拝」「力と恵みを分け与えられる礼拝」---- このことを、最初に私に質問した女性にも、まだそんな礼拝に気が付いていない多くの人にも伝えたいと思う。(本稿 了) Nat
2007年07月10日
21:47
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信じて生きている事
教会って何なのさ? その5
教会・礼拝についての私の認識の「コペルニクス的転回」の中身について書く。前に思っていた教会の礼拝は、人間が牧師の説教を聞きに集まってくる「人間の集会」だった。それでも空のかなたから神さまはそれを見守ってくれているのだろうが、集会そのものは人間の集まりであって、その場に何か特別なパワーがあるとかいったことはない。牧師の話を聞きにきた人は、個々人の理解に基づき自分で信仰を深めることになる。これが、「コペルニクス的転回」前の私の認識だった。
ところが17年前、私は、本当の礼拝はそれとは全然違うということに突然目覚めたのである。まず礼拝は人間の集会ではなく、神が人を集めた場であって、そこに招かれた一人ひとりが、その場にいることで豊かな愛と恵みと力を受ける、そういう場だったのだ。私は忘れていた。イエスが最後に言ったことを。「あなた方は、いつまでも私を思い出してパンを分け合いなさい」。「あなた方が私の名によって集まっているところには、私は必ずその真ん中にいる。」礼拝はこれだった。皆の真ん中に、目には見えないがイエス・キリストが今もいて下さり、大きく手を広げて皆を招いている。そして昔イエスがパンを割いて皆に分け与えて下さったように、そこにいる一人ひとりに、今も神の愛・恵み・力を分け与えてくれる、そういう場だったのだ。
それを、もう少し、一つひとつの「再発見」にくだいて書いてみたい。
●まず、自分の決断で教会に頑張って行っていたつもりが、実は神さまの「招き」で呼ばれて行っていた。礼拝は、主催者が神さまであるパーティーに呼ばれて行っているようなものだったのだ。
●個々人が勝手に集まり、それぞれが聖書講話を頭で受けとめる場で、映画館みたいなものだから、隣の人が誰でも関係ない、と思っていた。それが、神さまの招かれた人たちが「一つの群れ」として神さまに一緒に会う場だと分かった。だから隣の人との心の通い合いがとても大事であることが分かった。
●説教と言われていたもの、「聖書講話」と思っていたものは、そうではなかった。聖書からの「み言葉」を聞く中で、昔イエスと皆が親しく交わり神の愛を受けた、そのことを今、皆で想い起こし、今、群の一人ひとりにそのことが再現される場であった。イエスがパンを割いて分け与えて下さったように、礼拝という「イエスとの食卓」に招かれて座っている一人ひとりに、神の力と恵みが分け与えられる場であった。だから、たとえ耳が聞こえないとか、知的な障碍で説教が分からない人も、その場に群れの一員としているだけで、同じく恵みを受ける。頭で理解する場じゃなく、愛を浴びるように受ける場だからだ。
●そして、礼拝が終わると、受けた力と恵みで心が満たされリフレッシュされて、神さまによって教会から外の世界に「行ってらっしゃい」と送り出される。それで一週間走って、また翌週、神さまが「お帰りなさい」といって迎えてくれる、それが礼拝であった。
このように、「クリスチャンが義務的に毎週行く聖書講話集会」から「誰でも皆が招かれ、皆で一緒に神さまから力と恵みを分け与えられて送り出されていく所」というふうに、礼拝の大きな再発見があったのである。これに基づいて、私たちは自分たちの教会での礼拝のやり方の改革に着手していった。そのことを次回に。 Nat
2007年07月07日
14:03
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信じて生きている事
教会って何なのさ? その4
その1の冒頭の女性の疑問: 「わざわざ毎週日曜の朝に教会に行って聖書の話しを聞いて帰ってくることにそんなに決定的な意味があるの? 信じて生きているだけではどうしていけないの?」----たぶん普通の人にとって、教会のイメージはこれになってしまっている。毎週日曜朝に教会に行くと、牧師さんが“説教”で聖書の話をするのを聴ける。それで、それぞれの参加者が理解や思いを深めて家に帰る。これだ。こんなことなら、確かにその辺の教会の牧師さんの話を聞くより、日本で一番話しの上手な牧師さんの聖書講話をビデオかテレビで、好きな時に聞けば済むことだ。
しかし問題は、本来の教会、本来の礼拝は、聖書講話会ではなかったのに、そういうイメージだけになってしまっていることなのだ。私も、もし教会・礼拝がそんなものなら、毎日曜行くのはもう止める。私は朝が弱いので、そのぶん寝ていたい。しかし、本来の教会・礼拝は聖書講話会ではない。これまで見てきたように、目には見えないが今も皆を招いているイエスキリストの周りに集められて、神さまの愛とパワーを皆でもらい受ける場なのだ。週日にこの世の勤めで、ありとあらゆる迷い・悩み・疲れがたっぷりしみ込んでしまった心と体をそのまま持って行って、他のみんなと一緒にすっきりリフレッシュする、そしてパワーを充電されてこの世に「行ってらっしゃい!」と送り出される。それが教会の礼拝なのだ。家でビデオの聖書講話を聴いても、愛もパワーも来ない。単に知識・理解が進むだけだ。しかし、教会の礼拝は、現実に愛とパワーを浴びるように受ける場なのだ。
実は、斯く言う私も、昔は教会の礼拝を違ったように受けとめていた。というのも、既に述べた通り、最初に日本に来たアメリカの宣教師たちは聖書説明中心タイプの礼拝をもたらした。そして、日本の神学校では聖書学を教えるが、礼拝については教えないことが多かった。このようにして、日本では伝統的に、教会の牧師さん自身も、礼拝とは自分の説教を皆に聞いてもらう場としか思っていない人が多かったのだ。説教の前後に一応賛美歌などもあるが、なんといっても自分の説教が最大の出し物というわけだ。牧師の説教の言葉で、聞きにきた人が感化され、信仰が深まればいい、これが日本の牧師の考える礼拝であった。私もそんな教会・礼拝で育ったので、日曜には説教を聞きに教会に行った。眠いしカッタルイが、一応クリスチャンになったので、その証しとして、頑張って毎日曜説教を聞きに行く。それで、神さまから“ポイント”がもらえる、みたいなセンスだ。クリスチャンの義務みたいなものだ。
それが全く違うということに気がついたのは、今から17年くらい前。いま行っている教会で、昔で言う「教会学校」の責任者になった時だ。クリスチャンになった大人は、義務でも何でもまあ礼拝に説教聞きにくるのはいいだろうが、子どもたち・若者たちはどうか。学校で知識詰め込む授業があるのに、日曜に教会に来ると聖書の話を聞かされる? そんな教会に毎週行こうと思えるだろうか? そんな疑問から、そもそも礼拝って何なのだということを皆で振り返り始めたのだ。ちょうどその頃、日本のキリスト教の指導者たちの間でも、礼拝の見直し運動が始まっていて、そこで私は「本来の礼拝」というテーマに出会ったのである。それは、私にとって、本当に「コペルニクス的な転回」であった。
どう「コペルニクス的な転回」だったかについて、次回続きを書くこととする。 Nat
2007年07月05日
23:51
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信じて生きている事
教会って何なのさ? その3
前回書いたとおり、一番最初に出来た教会は、目に見えないイエスの周りに皆が集められ、皆で一緒に食事をして祈り、イエスのことを想い起こして語り合い、神の愛と力を新たに受けては、それぞれの生活に送り出されていく集団であった。そういうことなら、当時の多くの人が惹きつけられたように、今でも惹きつけるものがあるはずだ。そして、本来の教会はこれなのだ。
ところが、人間の組織として、これがどういうふうに変節していくかを見ていきたい。新約聖書の後半を見るとそれがよく分かる。まず、大勢が集まるようになると給食が大仕事になってきた。そこで、給食などを担当し人々のおなかを満たす係りと、イエスを想い起こし神の愛を語り人々の心を満たす主なる弟子たちとに担当分けされ、教会に人間組織構造が導入される。これは運営上やむを得ないわけだが、組織が肥大していくと当然人間組織一般にありがちなイヤな面も出てくる。初期のキリスト教の拡大に大きな貢献をしたパウロという人がいたが、彼はイスラエル国外の各地に教会を作って回った。しかし、彼が自分の作った教会に宛てた多くの手紙が新約聖書にあるから見てみたらいいが、彼は自分の作った教会の人間組織としての腐敗や変節を嘆いている。例えば、給食の配給順序でえこひいいきや民族差別がされる。集会の席順で町の偉い名士が優遇され身分の低い者が端っこに置かれるといった、まさに人間社会の問題が、場所によっては、教会においても発生したのである。
イエスの死後・復活後、数十年たつと、イエスの思い出の語り合いは難しくなるので、イエス伝承が書き物に纏められ、いわゆる新約聖書になっていく。そして4世紀には、キリスト教はローマ帝国の国教として完全に組織宗教になり、国家主導で教理の統一もされるようになる。その国家宗教、組織宗教のキリスト教のまま欧州で“暗黒の中世”時代を迎える。そこで、僧職の利権化と強烈な腐敗が起こる。意図的に庶民を礼拝や聖書から遠ざけて、免罪符や聖餐パンの有料販売などまで発生し、信仰の形骸化、教会組織の完全硬直化を生む。ここまで来ると、「本来の教会」とは似ても似つかぬ、全く別の「実際の教会」にまで変質してしまったわけである。
そこに、ようやく宗教改革が起こる。宗教改革者たちは、硬直化し変節した教会組織、僧職組織を否定し、いわば、最初の原始教会の息吹きに戻ることを提唱する。しかし、もはや原始教会そのものの時代には戻れないわけだから、実際に彼らが戻ろうとした先は、聖書と、そしてまだいきいきしていた時代の洗礼・聖餐式(聖礼典といわれる儀式)なのだ。これは一応理にかなっている。原始教会で、イエスを想い起こしながら語り合ったものが聖書になっているわけだから、それに戻ることは、最初のころの「語り合い」に戻ることを意味する。いきいきしていた頃の洗礼・聖餐式は、最初の頃、皆で共に食事をし、祈り神から力を受けた、あの頃のことに戻ることだ。
ところが、宗教改革からも早くも数百年たつ。その間に、戻ったはずの最初の頃の教会の息吹きが再び次第に風化し変節していく。宗教改革を受け継いだ新教(プロテスタント)で起こっていったことは、一つには、中世の組織を嫌った反動で、教会のもつ本来の「みんな」という共同体の気持ちが薄れ、個人主義になりやすかったことだ。二つ目は、中世の硬直化した儀式からの反動で、聖餐を余り重視しなくなったことだ。それで教会がイエスが分け与えて下さるパンを一緒に食べる場ではなくなっていく。三つ目は、聖書に戻るのはいいが、それが、とかく聖書学者や教師が信者に聖書講釈することと同じになってしまう。聖書に戻るとは、本来、イエスを想い起こし語り合うことにより、イエスの証しした神の愛を今一度いきいき受けとめ自分たちのものにするということだったはずだ。しかし、だんだん聖書学の講義のようになっていく。特に明治維新以降日本に来た米国伝道者たちが日本で始めた礼拝は、これに偏っていた。まだ何も知らない日本人に教え込むのだからということで、聖書の講義を中心とする簡略な集会にしたのだ。そこで、「みんな」ではなく「個人個人」が、聖書の話しを聴講しに来て、一人ひとりが頭で受けとめて帰る、というのが日本の(新教の)礼拝になった。
これが、冒頭に、私に質問した女性の指摘した日本の教会なのである。次回、改めてこの点をもう少し丁寧に述べたい。 Nat
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