新約聖書の最初にある福音書を読み始めてまず心にひっかかることは、イエスの激しい言葉ではないだろうか。全体を読むと、イエスが弱い立場の人間にはとても温かい言葉を掛けていることにも気がつくだろう。しかし、特に公けの場での演説は激烈な言葉を含んでいて、とげのように心に突き刺さる。「兄弟に対してばか者という者は地獄の火に投げ込まれる」、「右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい」、「こう言おう“あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ。行ってしまえ”」といった、突き放すような言葉。また、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」といった本能に反するような教え。しかし、そこには「群集はその教えにひどく驚いた」ともあるので、心にひっかかったのは、現代人の我々だけではない。当時の人も皆驚いたのだ。
イエスは、どのような目的でこのような激烈な発言をしたのだろうか。実は、彼はそれまでのユダヤの世界を支配していた、今で言う「ユダヤ教の指導者層・先生方」への激しいチャレンジャーとして登場してきたのである。大昔には純朴な神の愛への感謝と信頼から始まった筈だったユダヤ民族の信仰も、いつしか形式的な律法主義に落ち込んでしまっていた。(旧約)聖書に書いてある「おきて」(律法)を字句通り覚えてしっかり守る人はいい人、それが守れない弱い人は悪い人という訳だ。そして律法を守る人の頂点に立つ“律法の先生方”は、弱い人(=悪い人)を罪びととして蔑み遠ざけていた。イエスはこれに真っ向から挑戦する。「律法を強要する先生方よ。あなたの心は愛に満ちているのか?本当に神への感謝で溢れているのか?あなたたちは形だけの偽善者ではないか。あなたたちよりも、律法を守る余裕も強さもないこの貧民たち、彼らの飾らぬ心の方がよほど神に近い。」イエスはこのような迫り方をした。イエスの言葉の厳しさは、何よりも、偽善の固まりの律法学者やパリサイ人と呼ばれる人たちにこそ向けられていたのである。
前にもこのブログで書いたが、私が、若い頃本当に読むのがイヤだったイエスの言葉がある。「誰でも情欲をいだいて女を見る者は、心の中で既に姦淫をしたのである。」若い頃、男だから当然女性に情欲を感じる私は、大変当惑した。情欲を感じる目をえぐり出し、下半身の一物を切り落とし、出家しろ、とでもいうのかと。しかし、後にこの言葉の本当の趣旨が分かったような気がした。ユダヤ教のお偉い先生方は、弱い民衆が心の虚しさや寂しさの余りついつい不倫等に走りがちなのを見つけては、彼ら・彼女らを蔑み「姦淫・不倫は死罪だ」と裁いていた。イエスは、そういう先生方の偽善に迫ったのだ。「先生方よ。あなた達は恵まれ、綺麗な奥さんもいて、形の上では不倫しないで済んでいるだろう。それで弱い民を睨みつけている。しかしあなたの女性を見る目のイヤラシサは何だ?!あなたも心では不倫しているではないか。人間には誰だってそういう情欲がある。あなた方と彼らの違いは、それが、弱さの余り行動や形に出てしまうかどうかだけじゃないか。むしろ人間が持っているそういう本能、弱さを先ず認め合いながら、そこからいかに神と人との愛に生きるか。それが問われているのだ。」イエスが字句通りこう言ったかは知らないが、イエスはそう言いたかったに違いないと思っている。
このように、激烈なイエスの言葉は、まずは偽善的な先生方に向けられていたのだ。しかし、だからと言って、イエスの激烈な言葉は彼らだけに向けられていたと思うのは、大きな間違いだ。イエスは誰も差別しない。イエスは、この私の中にも、律法学者やパリサイ人的な偽善があることをご存知だ。私が人を見て「俺はあいつらみたいないい加減な奴らとはちょっと違う」と人を見下す時、イエスの言葉は私に向けられる。
さて、これでイエスの激烈な言葉の背景も趣旨も分かった。しかし、激烈であることに変わりはなく、それだけでは我々に救いをもたらさない。では、救いはどこから来るのだろう。次にこの点に迫りたい。 Nat
イエスが十字架で刑死したのは西暦30年前後だが、そののち初期のクリスチャンたちの間で口述伝承されていた「イエスの言行録」を、西暦70年位以降に4つの異なるグループがそれぞれ編纂したものがこの4つの福音書である。本当は他のバージョンもあったようだが、それから更に100年程後に「新約聖書」として纏められた時に“正統資料”として残されたのがこの4つだ。逆に言うと、新約聖書として纏めた人達としても、この4つのどれか一つには絞りきれなかった。むしろ4つ全部並べて初めて何とか「全体が見えてくる」と判断したということだ。私は「その?」で聖書を望遠鏡に喩えたが、4つの望遠鏡はそれぞれ向きも少しずつ違うし、見えにくい部分もある。しかし4つ全部覗いてみると、「イエス」というものの全体像が何とか見えてくるという訳である。
ということで、どうしても4つないとダメなようだが、初めて読もうという人には、確かに煩わしかろう。それで、ワルター・ワンゲリンという人が4つを一つに整理して、分かりやすく小説風にした「小説イエス」という本もあって、去年秋に日本でも翻訳が出た。読んでみたが、なかなか良く出来ている。
ただ、私としては、4つの別々のグループそれぞれが「これこそを後世に伝えたい!」と思って編纂した、それぞれのあつい思いがあってもいいようにも思っている。それだけ、彼ら・彼女らが、イエスから直接受けたもの、或いは弟子たちから受けたものが、忘れられない、心を揺さぶるものであったということではないかと思うから。
ここで、クリスチャンの読者から横槍が入りそうだ。「Natさんは、聖書を人間が書き、人間が編集したものと言うが、Natさんは聖書は全くの人間の言葉であって、神の言葉とは信じてないの?」って。これに対する私の答えは、「聖書は人間の言葉を通して示される神の言葉だ」というものだ。
遠藤周作さんの「イエスの生涯」という本がある。あの本がいかに良く書けていても、あれは人間の言葉であって、神の言葉ではない。私のブログが全くの人間の言葉であるのと同じだ。一方、新約聖書は、イエスという人から忘れ得ぬものを受けた人たちの直接の記憶や思いを編纂したものだ。イエスからほとばしり出たものが、少なくとも素材として直接散りばめられているものは最早これしかない。覗き込んで遠くにでもイエスが見える可能性のある望遠鏡はもうこれしかない。遠藤周作は、その望遠鏡を覗き込んで、見た上での彼の思いを書いただけである。「神の人」イエスそのものからの「ほとばしり」をたっぷり含んだ文章、それが新約聖書。人間の文章だが、その中に、その奥に、「神のメッセージ」が垣間見られるのだ。だから、私は聖書の言葉は「人間の言葉を通じて示される神の言葉(“み言葉”)」と言っている。どうだろう?あなたにとって、「人間の言葉」と「神の言葉」は重なることのあり得ない二律背反のものだろうか? Nat
旧約聖書は天地創造物語だけではない。そのあとに、アダムとイブとその楽園からの追放の話、大洪水とノアの箱舟の話、始祖アブラハムの話、エジプトからの脱出、ダビデ王の話と続き、その?でも述べたバビロニアでの幽囚時代の苦難からの叙述などが続く。紀元前2500年位前からのユダヤ民族の壮大な歴史を紀元前500年位前に纏めたものが、現代の世にまで伝わっているのだから、大変なものだ。
だから、旧約聖書の神は、ユダヤ民族専用の神でなければならなかった。そんな神のことを書いてある旧約聖書なんか読んで何になる?そう思うのが普通だろう。そして、それは健全かつ重要な疑問なのだ。私の教会も属する日本キリスト教団という、プロテスタントのキリスト教団体の正式の信仰告白文には「旧新約聖書は---教会の拠るべき唯一の聖典なり」と書いてある。そして我々はみな旧約聖書・新約聖書が一体になった聖書の本を持って日曜の礼拝に行く。それでも、旧約聖書は「旧」(ふる)い約束を書いた聖書なのだ。もはや半分は古い。古くないと思われる半分は、旧約聖書のメインテーマ「結局、神はそんな人間でも愛し給もう」という信仰。そして古いと思われる半分は、「神がユダヤ民族専用」と思う点と、「神の愛に応えるためには生活上の厳しい決め事を守る形が大事」と思うこの2点だ。ここで終わっているのが、現在も続くユダヤ教である。
この天地創造物語にひっかかる人がいるらしい。生物の進化を否定する非科学的な話が書かれているというひっかかりのようだ。しかし、私の周りのクリスチャンでは、この「天地創造物語」と、「生物の進化」とを、どちらかが正しくどちらかが間違いという二者択一的に捉えている人はまずいない。しかし、どうもキリスト教も教派によるようで、天地創造を字句通り信じ込むように指導する集団もあるようだ。特にアメリカのキリスト教原理主義者たちには学校で生物の進化を教えるのにも反対する人が多いらしい。
しかし、生物が進化してきたことは、恐らく99%間違いない事実であると思われる。尤も最近このブログで連載したように、進化の仕組みについては「個体の自然淘汰説」のように見当違いと思われるものも含めて、まだまだ科学としては全然ダメだし、何も分かっていない。それでも、進化してきたこと自体は事実であろう。
を創った。次に天地・海、そして海の生物、次に陸の生物、最後に人間を創ったとある。確かに一つずつ創られたとされ、最初の単細胞が進化していったとは書いてない。しかし生物が進化してきたことに人類が気づいたのは19世紀のことだ。一方、創世記を纏めた人たちは2500年位前の人たちで、当然まだ進化については発想もなかった。だから、創世記の記者たちにとって、生物の進化の有無は論議の対象になっていない。ただただこの世が、天地も生き物も偶然に出来たものではなく、宇宙の源である「神」によって創られたものなのだという信仰を述べているものだ。つまり、彼らは生物の話をしているのではなく、神の話をしているのだ。だから、創世記を読んで、生物学の進化理解と、どちらが正しいかという問いを発するのでは、創世記記者の真の趣旨をミスることになる。