いよいよトカゲがどうやったら鳥に進化したかを今いちど考えてみたい。化石の研究などから二つの説があるようだ。一つは木の上で生活していたトカゲがうろこを変形させ羽根状にして飛ぶようになったという説。もう一つは地上を走っていた小さな恐竜が羽毛を生やし羽根にして飛ぶようになったという説。もともと恐竜の多くは実は保温のため羽毛を生やしていたのではないかと言われており、この後者の説は結構有力なようだ。
どちらにしても問題は、なぜある時ある種のトカゲか小恐竜に、羽根が生えた子孫が生まれるようになったかだ。学校であたかも立証された正統な学説かのように教えられている「自然淘汰説」でいくと、ある時ある種のトカゲの夫婦に何故か偶然に変な羽根の生えた奇形児が生まれた。その奇形児が羽ばたくと空を飛べたので、その奇形児は空の虫などを食べて強い子になった。そしてその奇形児の子孫が繁栄して鳥族になったというようなことになる。しかし前にその?で述べた通り、例え奇形児が上手く空を飛べたとしても、その奇形児が上手く同じような鳥状の子を生める確率は低い。その奇形児が交配できる異性の相手は未だ普通のトカゲしかいないかも知れないし、更に遺伝子が変わり過ぎていてはもうトカゲとは交配出来なくなっているかも知れない。またもし同じ鳥状の奇形児の異性の兄弟姉妹が1,2匹いれば兄弟姉妹同士で結婚して鳥状の孫を作れたかも知れない。しかし、そんな近親相姦の繰り返しだけで子孫を多く残せた可能性は少ないと思う。
しかも、これは奇形で生まれた鳥状のトカゲが、上手く空を飛べて、自然淘汰上有利であったことが大前提だ。しかし実は、偶然に羽根が生えた程度ではとても空を飛べない。羽根は平たくてはダメ。少し上に盛り上がった流線型でないと揚力が出ない。また、全身の骨を中空の構造にして身を軽くしないとても飛べない。となると、鳥の第一号として生まれてくるべきトカゲの奇形児は、流線型の羽根と、中空の骨という、二つの奇形要素を偶然に兼ね備えた稀有の奇形でなければならない。その上、奇跡的にそういう奇形児が出来てその子だけは空を飛べたとしても、前述の通りその子が同様の子孫を産み残せる確率は極めて低いのだ。このように、鳥への進化にしろ、何への進化にしろ、偶然に生まれた奇形児が偶然に「奇跡の完成品」だったと考える自然淘汰説は、小生には全くの見当違いとしか思えないのである。
では、実際にはトカゲはどうやって鳥になったのか? 勿論誰にも本当のことは分からない。しかし私は結論から言うと、ある時、地上は混み合って餌も乏しくなったといった環境になり、多くの動物たちが地上から空に進出したくなる時代があった。それで様々な動物の種はそれぞれのやり方で、空に進出しようとして種全体として進化したというイメージで考えている。一匹の奇形児が偶然に生まれたのではなく、ある時代に、その種から一斉に新しいタイプの子孫が発生したのである。結構長い時間の中でそうなったのか、割と短期間に一気にそうなったかは分からない。しかし、大局的にみるとある時代に一斉に変わったというイメージだと思っている。そんなことがあり得るか? 次回のその?でそれについて書きたい。
Nat
聖書の天地創造のとおりだ」と信じているのには無理もない面もあるのだ。
しかし、化石や考古学からすると、どうも太古の昔には単細胞の生物しかいなかったようだから、それが鳥や人間にまで進化したのも事実のようである。そこで、見たことも体験したこともない「進化」という事が実際にどう起こったのかを、想像・空想するしかない。ここで、何度もいうが、空想のパターンには二つある。一つは、生物のある種の全体が一緒に進化していくという考え。もう一つは、生物のある種の中のある個体が変わってそいつが広がってしまいには全体が変わるという考え。「全体進化」か「個体から進化」かだ。
“科学者”と呼ばれる人は出来るだけ奇想天外な空想を排除し、自分たちの知っていること、確実に見て分かっていることから物事を説明しようとする。そうなると、いきおい「個体から進化」説を採ることとなる。何故か?それは、先に述べたとおり、人類は誰も種が全体として進化していくのを目撃していないこと。それと、全体として進化するなら生物の中にそのように進化するプログラムが組み込まれているはずだが、未だそういうプログラムが発見されていないからだ。
しかし、そこから先がどうにもこうにも苦しい。奇形的な一匹が、残りの普通の馬を凌駕してついにはキリンの群れになる、残りのトカゲを凌駕してついには鳥の群れになる。ここのプロセスの説明が出来ないのである。その?でもカタワのトカゲが鳥の種にまでなれるとは思えないという話をしたが、自分の理解できる「一匹の奇形」から無理に「種全体の進化」の説明をしようとするから行き詰るのである。
種というのは、なかなか安定したもので、そう簡単には変化も進化もしないようだ。有名なシーラカンスやカブトガニは太古から今まで全く変わらず同じままでずっと続いている。奇形のシーラカンスやカブトガニもこれまで何匹も生まれただろうが、皆、他の普通の個体より先に死んでしまったのだろう。ずっと変わる必要も理由もないのでシーラカンスやカブトガニは、ずっと変わってない。
そこで、ある時一斉にトカゲから鳥が発生したとしよう。そうすると、次の疑問が生まれる。ある種のトカゲの仲間の中から羽根の生えた鳥が発生したとして、ある時にそのトカゲの仲間は一斉に皆羽根の生えた鳥型の子孫を生んだのか? それとも、ある時何故か群れの中に羽根の生えた鳥のような変わった子どもが一匹だけ生まれ、そいつが広まって遂には鳥の群れになったのか? どちらか本当に起こったことだったのかが問題になる。しかし、後者は本当にあり得るか? 一匹だけ「かたわ」のような羽根の生えた変な子どもが生まれたとしよう。そいつは突然空を飛べ、たくさん食べ物にもありつけたかもしれない。しかし、所詮一匹だけなら、同じ鳥型の子孫を残すための交配の相手がいない。元の仲間のトカゲと交配しても、もとのトカゲ型にちょっと毛の生えた程度の子どもしか生まれないかもしれない。よしんば上手く飛べる羽根の生えた子どもが生まれても、所詮、鳥はまだ親一匹とその生まれた子ども一匹だけだ。日本トキがあと数匹だけになると、幾らお助けしてももう二度と発展できないで絶滅したように、一匹や二匹いても全然意味ない。ということから、ほぼ間違いないのは、鳥型の子どもは、ある時大量に発生したと思う以外あり得ないということだ。「かたわ」の一匹が発展して鳥になったというのはあり得ない。ある時、トカゲは一斉に鳥になったのだ。
これが全然分かっていない。事実としてどうだったのかが分かっていない。 Nat
「これ以上生きていても何もいいことはない。今の苦しさが続くだけだ。」そういう大前提で人は自殺する。「社会で落伍し一人きりになってしまった。」「自分には何もいいところがなく、みなの侮蔑の目がもう耐えられない。」
人は周りにいる他の人との関係で、喜んだり悲しんだり憤ったり感激したりして生きるが、人との関係が苦しいことばかりと思うようになったら大変辛いだろう。回りに多少好意的な人がいたとしても、所詮「他人」だ。自分の苦悩を分かってくれる人がいるわけもない。
そう思って孤独の中で絶望していく。
そういう人は横にいる他の人間のことを気にし、そして避けるようになり、嫌いになっているが、全く気がついていないことがある。上だ。人に命を与えた「宇宙の精神のようなもの」があると思わないだろうか。もし、それがあったとしたらどうか。それはその人の命を作りっぱなしにしているのだろうか。もし、それがずっとその命を見つめ見守っているとしたらどうだろう。スピリチュアルな話をよくする江原啓之さんの最近の本の中の「あなたをずっと見守っているものがある」というメッセージが結構読者に感動を与えているようである。江原さんのいわれる守護霊的なものと、私がここでいっている「命のみなもとで命を見つめているもの」が同じものか、相当相通じるものか、その辺は分からない。しかし、どんなに人に嫌われ、人が嫌いになり、独りぼっちと思っても、そんな命を暖かく見つめ見守ってくれている存在が必ずあるとしたら、それは独りと思っていた人生に新しい光
を差し込まないだろうか。
この「自殺の大前提」を書いてみて分かった。最も根本的な「自殺の大前提」は「神などいない」ということだったのだ。「神などいない。だから自分は、今あのいやな人間たちの間で苦しみ絶望している。生まれてこなければ良かった。」そう言って死んでいくのだろう。