♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)
生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等
2006年12月
2006年12月30日
18:08
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その他色々だよ
自殺の大前提 その4
自殺をする人の大前提は「死んだら自分は消えてなくなる」か「死んだら生れ変わってやり直せる」のどちらかのようだと述べてきた。その後、ネット上の色々な記事をみていると、思った以上に後者の「生れ変わり」を思っている子どもが多いことに気がつく。ちょっとしたはやりであろうか。ゲームでそういうのがあるのかも知れないとすら思う。
しかし、もっと大人になると、ニヒルになって、この間もある自殺願望に関するサイトでこんな意見があった: 「生れ変わりなんてないよ。死んだら消える。オレはXX年X月に生まれたが、それ以前にはオレはいなかった。その状態に戻るだけ。死んだら全てを終わりに出来る。」という意見があった。前に12月2日のこの記事のその?で書いたとおり、生まれる前の自分に対する記憶も意識もないので、生まれる前には自分というものが存在しなかったと想定する人は多いのだろう。しかし、生まれる前の意識・記憶は、今度生まれた時には、今度の自分の直接の脳のメモリーには引き継がれない仕組みになっているだけかも知れないし、そこまでは誰にも分からないだろう。パソコンで消した筈のデータが実はパソコンの奥深くに残っていることがある事はご存知と思うが、それに似た構造になっているのかも知れない。なのに「生まれる前には自分がいなかったと思うので、自殺で死んだら自分を消し去れる」と思うことには全然根拠がないかもしれないということだ。
といったように、自殺する人の大前提には良く考えると根拠が怪しく、根拠の怪しい前提に基き自殺してしまうのはいかにも残念であると、ここで書き続けてきた。しかし、それでも死にたい人はいる。そもそも「生まれてこなければ良かった」と強く思うほど、自分が嫌であったり、いじめられるこの世が辛いので、とにかく、もうそれは終わりにしたい、そういうことだろう。それに対して、「どうして、もっと頑張ってみないのか」とか「生きていると、そのうちいい事もあるかもしれないじゃないか」などと言っても、多分無駄なのだろう。普通の生活の知恵の範囲で、死のうとしている人を留めることの出来る新しい発想は多分ないのだろう。死のうとしている人が全く知らなかった、全く新しい光
のようなものが差し込んでこない限り。
私は、実はそういう光が全ての人に、既に差し込んでいる、しかし、それを知らないだけではないかと思うのである。この「自殺の大前提シリーズ」の最後として、次にお正月に書く「その5」で、その光とは何かにつき触れたい。 自殺検討中の方は、もうちょっと待っていて下さいね。
Nat
2006年12月21日
22:41
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信じて生きている事
ウソみたいな最初のクリスマス
今年ももうすぐクリスマス。私の行っている横浜の田園江田教会でも、まさに今がピーク。明後日、23日の土曜の夜9時からは、私のジャズバンドで教会礼拝堂での無料クリスマスジャズライブもある。
でも勿論、クリスマスは、主イエス・キリストの誕生を祝う時。普通の人は、深くそのことを考えたことがないかもしれない。そこで、ちょっと書くが、新約聖書のイエスの誕生の記事を、例えばルカによる福音書で見てみるとどうか。まず、ご存知の母マリアの処女での受胎(妊娠)。よく「あんな非科学的なことを書くから聖書はダメだ」といわれる、その処女妊娠だ。著者のルカは、イエスの時代の直後にクリスチャンになったお医者さん。だから、当時の医学でも処女妊娠がないことくらい勿論分かっていた。そのルカが、敢えて後世の我々に、イエスは母マリアの処女妊娠で生まれたとウソみたいなことを叙述した。ルカは何を我々に伝えたかったのか?
そして、同じルカの記述によると、イエスは母マリア達の旅先の旅館が満杯で泊まれず、やむなく旅館の横の馬小屋で生まれ、馬の餌を入れる飼い葉桶なるものに寝かされたとある。救い主が生まれた時の情景として、このような動物並み、人間以下的なカッコの悪いシーンを敢えて後世に書き記したルカの狙いはどこにあったのか?
本当に、マリアの妊娠がどうであったか、イエスの誕生がどうであったか、ルカも伝聞で聞いたことを整理したわけで、彼も別に見たわけじゃない。しかし、ルカが信じたことがあった。イエスと共に生き、そしてイエスの十字架での死刑、そして復活なるそれこそウソみたいなことを経験したと主張する直接の弟子たちから色々な話を聞いたルカだ。そのルカが、聞いた話から、当時最もインテリであった医者の自分の知性のふるいにかけても、後世に伝えたかったことがあるのだ。
その一つ目: 弟子達は、イエスの生き様、死に様、復活の様の中から、イエスという人の中に、神から来たとしか思えないものを強く感じた。このことを受け継いだルカが聞いた話から選び取って叙述したことがマリアの処女妊娠。神から来たとしか思えないイエス。このことを普通の人が思いもかけない形で表現するストーリーとして、処女妊娠ほどインパクトのあることはなかったのであろう。ルカは、このウソみたいな伝聞を敢えて自分のイエス報告記に取り上げたのだ。そしてルカが本当に言いたかったことは、弟子たちがイエスに、一生忘れられないような強さで神を感じたということなのだ。
その二つ目: しかし、神が当時の庶民にとって、人間からいかに遠く、近寄りがたい存在であったか。ルカが、イエスが人間以下的な存在、人間の中でも最も卑しい生まれ方をしたというストーリーを重視したのは、その点に対する彼のあついメッセージなのだ。処女妊娠したような人間の理解を超えた神の子が、お城の中で気高く生まれたのでは、卑しい庶民には近づきがたい。しかし、ルカの強調したかった実際のイエス像は違うのだ。社会の最も底辺にいた人達の、そのまた下のような存在として生まれたイエス。神が我々のレベル、いや我々以下的なボロボロのレベルに降りて、そこから我々に近づいてきてくださる。ルカが話しを聞いた弟子たちはイエスをそんな救い主だと感じた。そして、ルカはそのことを強く後世に伝えたかったのだ。
処女妊娠、馬小屋での誕生。この有名なストーリーの裏に、ルカのあつい想いが秘められている。そんな想いを2000年後の我々が受け取っている。そして、今、著者ルカのあつい想いを汲んで、心からメリークリスマス!と言いたい。 Nat
2006年12月16日
00:01
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自殺の大前提 その3
その2で、自殺する人は「死ねば自分は消えてなくなり、苦しみは終わる」との大前提で死ぬと書いた。しかし、その?で書いたように、「死んで別の自分に生まれ変わってやり直せる」と信じて自殺する人もいることが分かった。その後、関連の記事を見ていると、この「やり直し」目的の自殺も結構あるようだ。欧米のキリスト教文化では、死ねば天国か地獄に行ってもう戻ってくることはないので、輪廻転生を想う人は少数であろう。しかし、さすがに日本は仏教の伝統を引いている。輪廻転生でやり直せると思って死ぬ人が時々いるようなのだ。
何度も言うように、小生には死んだら本当にどうなるのか全く分からない。輪廻転生についても、あるのかないのか皆目分からない。しかし、もし誰かが深い洞察の末、輪廻転生があることを悟り、そして「自分の今回の人生は最低であったので、次回は絶対にこれ以上は悪くはならない」と確信が持てる場合は、その可能性に賭けることもあり得るかも知れない。しかし、もし、ゲーム機でリセットする感覚で、今回のゲームは失敗したから、リセットでやり直しという感覚で死んでいくなら絶対やめておいてほしい。
その?でも言ったとおり、死んで輪廻の輪に入っていけるとしても、それは、自然死の場合に限られるかも知れない。パソコンも電源を切る時は手順を踏んで切らないとダメだ。いきなりスイッチを切ると、次にスムーズなログオンが出来なくなる。それと似ていて、自分で突然命のスイッチを切ると、予定されていた道筋から外れて、とんでもない所におっこちてしまうのかも知れない。いわゆる霊能者の言うことは、全てそのまま信じる気にもなれないが、どうも多くの霊能者が言うことは似ている。それは、この世で、それぞれの人が苦しむとしても、それは、その人の霊が今生で与えられた課題みたいなものなのであって、その課題と真剣に取り組むことで初めてその霊は死んで次の段階に進めるということだ。ところが、その苦しみの最中で、突然スイッチを切ると、生まれる前から敷かれている道筋から外れてしまって、苦しみから次の段階に移れる道が絶たれてしまうという。しかも、突然スイッチを切ったので、自殺した時の苦しみのまま画面が固まってしまう。それで永遠、あるいはある霊能者は何故か500年と言っていたが、ずっと、その自殺時の苦しみ状態に閉じ込められたままになることが多いとも言う。こういった「自殺者は成仏できない」という説は、割と知られていて、自殺した人の家族がそれを非常に強く心配する例が多いらしい。苦しんで自殺したのに、その苦しみに永遠に閉じ込められているなんて可哀想すぎるというわけだ。それで成仏の祈願の相談なども実際にあるらしい。
「死んだら消えてなくなる」あるいは「死んだらやり直せる」、だから「死んだら今よりまっしになる」ということが自殺の大前提になっている。しかし、それは自然死の場合だけだったらどうする? 突然命のスイッチを自分で切ってしまって、苦しみの中に固まってしまったらどうする? いったんそうなってしまったら、突然スイッチ切ったパソコンが調子狂う程度の話では済まされない。
命は神さまから与えられたものだから、スイッチを切るのも、次の段階に移してもらうのも、全部神さまがして下さるのに任せるのが一番、そう信じてほしいなと思う。Nat
2006年12月12日
23:43
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その他色々だよ
自殺の大前提 その2
前回の記事で、自殺の前提として「死んだらテレビのスイッチ切るように、全てが消えてなくなる」という想定があるはずと書いた。そして、そういう想定しか発想しない子どもばかりとすると、もしかして日本では、命とかたましいとか、あるいは「あの世」等に関して一度はじっくり考えてみる環境がなくなっているのかもといったことを書いた。じっくり考え、その上で「消えてなくなる」との確信をもって自殺するなら、これはもうその子のチョイスになる。小生としては、止めたい気がするが、確信を持っていれば止め切れまい。しかし、そういう確信を持って自殺する子は非常に少ないと思われる。
ところが、そう書いた直後に出た報道に驚いた。男の子が自殺したが、彼は「お母さんは死んだら生れ変わることはないというが、自分は絶対、今度こそ自分の望む自分に生まれ変わってやる」といって自殺したらしい。消えてなくなる確信ではなく、全く別の自分への生まれ変わりの確信を持って自殺した少年がいた。非常に驚く。輪廻転生を日常的に話ししたりする環境のなくなった日本で、彼は一体どのようなもの、あるいはどのような本、あるいはどのようなに人に触れて、そう確信できるようになったのだろう。そこに関心がある。輪廻転生こそはインド文明が古代からの鋭い直感や時に前世の記憶のある人などから、たましいの原理として打ち立てた非常に有力な考え方だ。お釈迦さまのいう4つの苦しみ「生老病死」の最初にくる「生」、つまり「生きていることが最大の苦しみだ」という意味はここから来る。この世の苦しみに耐えて生きて死ぬと、また転生して別の苦しい「生」を生きねばならない。永遠の「生き地獄」が「生」だというわけだ。この永遠のサイクル、「カルマ」から逃れるには、解脱しかない。悟り、解脱すると、生き地獄のサイクルよりも上の層に上がっていける、いわゆる「成仏」できるというわけだ。
このようなこの世の仕組みが、本当にそうなっているかどうか、知るよしもないが、この輪廻転生を信じる人は、日本では極めて少ない。仏教が日本に伝わり、日本仏教という違う宗教に変化する中で、おっこちてしまった概念が輪廻転生だからだ。それを、確信して自殺した少年がいた。このことに驚きを禁じえない。すごい。もしかして、少年の信じたように、強烈な意思をもって自殺すれば、想定した方向での転生があるのだろうか。私のセンスからすると、神といった「命の根源」との繋がりなしで、自分の「怨念」だけで命やたましいを操作できるというのは、なんとなく違うのではないかと思う。しかし、本当に死んでまで確信を実行に移したその少年の「念」に、語弊はあるが一定の敬意のようなものを感じる。
しかしやっぱり自殺しないでほしかった。 Nat
2006年12月02日
16:50
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自殺の大前提 その1
最近、自殺の報道が多い。特に若い人がいじめを苦にして自殺する。自殺をする人は、自殺することでこの世の苦しみを終わりにできると思って自殺する。その大前提になっているのは、自殺した後は自分が消えてなくなって「無」になり、それまでの苦しみから逃れられるということだろう。勿論、思いつめているわけだから、そこまで論理的に思考して死ぬわけではなかろうが、無意識的にも、直感的にも、死んだら全てが終わりになって楽になれるということが大前提になっている筈だ。
しかし、誰も死んだことがないから、本当は死んだ後にどうなるか、誰にも分からない。「無」になって楽になれるという保証はない。その方面の説によると、自殺した霊は、いわゆる「成仏」できずに、その辺に漂う浮遊霊になったり、死んだ場所につきまとう地縛霊になったりして、永遠に苦しみ続ける存在になるという話もある。また、いわゆる天国とか地獄的なものが本当にあるか、どうなっているか、我々には知るよしもないが、もしそういうものが待ち受けていて、しかも自殺した場合には地獄行きになるのだとするとどうだろう。この世におけるいじめの苦しみから逃れるべく自殺してみたものの、永遠に苦しむ霊になって漂ったり、永遠の地獄に落ちてしまったら、それこそ取り返しがつかない。しかし、自殺する人は、そのようなことはあり得ないと思い込んでいるか、あるいはそこまで考えてないとしても、何となくそういうことはないだろうと仮定して死んでいく。
なぜ、そんな仮定が出来るのであろうか。思うに、どんな宗教でもよいから、目に見えない物への想いをはぐくむ社会においては、自殺した後に「無」になって楽になれると仮定する人の割合は少ないのではなかろうか。日本でも昔は、祖先の霊への思いを中心とした自然な宗教観があった。しかし、現代日本は、学校においても、家庭においても、地域においても、そのような思いをはぐくむことを止めてしまっている。だから、子どもたちは、直感的に死んだら全てが終わると思っている。それ以外の発想は、非科学的な妄想と思っている。そうなると、この世で苦しいと、簡単に自分の命のスイッチを切れるのだ。つまらないテレビの番組のスイッチを切るように。しかし、命というものは本人がスイッチを切っても、それで終わりにはならないものかもしれない。テレビでも、スイッチを切っても電源のランプは消えずに残る。ましてや命はもっと人間の浅い思いを遥かに越えたものかも知れない。
そんな命なのだが、自殺する人は、自殺で命のスイッチを切れると思って自殺する。恐らくその際の想定、即ち、死んだら永遠の「無」になるという想定は、もっぱら、自分が生まれてくる前のことは覚えていないことからの類推で、意識はこの世に生きている間だけにしかないと思い込むことから来る。つまり、生まれる前の自分のことを覚えていないから、生まれる前には自分なんてなかったに違いない。同じように死んだら、自分は消えてなくなるというわけだ。しかし、生前の自分を覚えてないことは、生前にはまだ自分というものがなかったことの証明にはなっていない。生まれる前の自分の意識が、生まれた時に別の意識に切り替わっていたら、もうこの世では分からないわけだから。現に、催眠術の一種で、生前の自分に遡る技法がある。と言うわけで、生まれる前を思い出せないことは、必ずしも死んだら無意識になることの証明にはならないのだ。こんな簡単なことを学校では議論も考えもさせない。だから、死んだら「無」になるという仮定を多分無自覚のうちに持つことになる。そして、その結果、いじめられたら自殺をする。
前にこのブログでも色々書いたとおり、死後のことは私にも分からない。しかし、自殺した人達が、結果として思わず永遠の苦しみの中に入ってしまっているとすると、こんな気の毒なことはない。少なくとも、自殺の結果そのようなリスクがあり得ることを考えることのできる教育が必要ではないだろうか。
しかも、私自身は、命は神さまが下さったものと信じている。だから、私はそのスイッチを切ることはあり得ない。私は、神さまがこの世の命が終わりと定められた時に、神さまによって命を完了することしか考えらない。どんなにいじめられてもだ。そして、神さまが終わりと定められて、この世の命を完了した時、命はそれで終わりとは絶対思わない。どういう状態になるかは全くわからない。でも、神の愛の中で次の状態になることだけは確信している。それなのに、若い人が、そういうことを思う前に、自分で自分の命のスイッチを切り、その上でもし取り返しのつかない永遠の苦しみ状態になっているとすると、これほど悲しいことはないと思う。
通常、いじめによる自殺の話は、いじめないようにする教育とか、相談する勇気とか、そういった話になるが、自殺したあとのことを一度考えるべきだという話をする人は余りいないような気がする。だからちょっとそのことを書いてみた。おかしいでしょうか。コメントあれば下さい。 Nat
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