前回までで、ジャズのリズムやビートは、クラッシック音楽などのように、小節の枠に沿ってきちんと入るのでなく、裏に入るアフター・ビートや、ちょっと前のめりに攻めるシンコペーション等が特徴で、そういう「きちんとしてない」ちょっとずれたビートで、却って、前に前に進むジャズ特有のエネルギーが生まれると書いた。
このことは、リズムやビートだけではない。メロディーの方の音程や和音でも同じように「きちんとしてない」音が、ジャズのエネルギーを生んでいる。順を追ってご紹介したい。先ずはブルーノートという言葉をご存知だろうか。東京青山のジャズクラブあるいは大昔のジャズのレコードのレーベルで「ブルーノート」というのがある。しかし、それは、ジャズ(あるいはロック)のある特有の音程の名称からきている。ずばり言うと、全部フラットになるが、ミ、ソ、シの3つの音をそれぞれフラット、つまり半音下げた音程をブルーノートという。この音程の起源は黒人の鼻歌の節回しから来ているが、これがジャズに前進エネルギーを与えるのだ。
普通の音楽はドレミファソラシドで出来ている。ところが、ジャズでは、これに加えて、ミ、ソ、シのフラットを多用するのだ。半音下の音だから、ちょっと気持ち悪い。きちんとしてない、すっきりしない不協和音っぽい音程だ。しかし、だからこそエネルギーを生む。ミのフラットは、きたなくて、不安定で、どうしても、早く半音下のレに落ちて、更に、安定度の高い土台のドの音にまで行き着きたい気持ちを生む。ファのフラットは、半音上のソ、安定度の高いソにまでせり上がって落ち着きたいという気持ちを生む。シのフラットは、半音下のラに早く降りて、更に、安定度の高いソにまで行って落ち着きたい気持ちを生む。このように、ジャズは不安定できたなくすっきりしないブルーノートを多用して、常に前に前に進まないとすっきりしないという前進エネルギーを音楽の中に取り入れているのだ。これは、クラッシックが、典型的にはあのモーツアルトの「ドーーソドーーソドソドミソーーー」というようにきちんとした音をベースにしていて、最初からもうしっかり落ち着いた音楽になっているのと大違いである。
今年の4月28日のこのブログ記事でブルースのことを書いたが、ジャズでもブルースにこのブルーノートが多く使われる。有名なSt.Louis Bluesの出だしの部分「I hate to see- - - -」は、「ミーソミードーー」で、なんだモーツアルトと同じ「きちんとした音」ばかりじゃないかと思うでしょう。しかし、その次の 「the evening sun go down」は、「ラドレミb―レードーー」で早速「ミb」(ミのフラット)というブルーノートが登場する。ミのフラットでは、きたなくてすっきりしないので、堪らず、「ミb→レ→ド」と下に落ちていっている。これこれ、これがブルーノートの「前進エネルギー」なのだ。ああ、ジャズはいいなあ。 Nat
その1で、ジャズの魅力の一つは「アフター・ビート」(裏に入るアクセント)にあると言った。しかしジャズのリズムのノリは「アフター・ビート」だけではない。
「シャッフル」と呼ばれるノリがある。普通の4拍子の曲は、クラッシックも含めて普通、1拍が2つの8分音符に分かれる。その8分音符を並べると、通常は「カタ・カタ・カタ・カタ」という感じで1小節になる。ジャズでもロック系やボサノバ系は基本的にこの「カタ・カタ・カタ・カタ」というノリになる。いわゆる「8ビート」のノリというやつだ。しかし、ジャズ、あるいは特にリズム&ブルースやブギウギのノリは違う。ちょっと難しく言うと1拍を3つの3連音符で構成して、しゃくるように「ドント・タタタ・ドント・タタタ」というノリにする。「カタ・カタ・カタ・カタ」という「8ビート」ノリがどちらかというと機械的なノリになりがちなのに対して、シャッフルのノリはうねるような熱いノリになる。普通ジャズで「4ビートのスイング」というと、このノリになる。なぜか、徳島の阿波踊りのノリがこれに凄く似ている。うねるように踊り、段々熱くなるあのノリがジャズに近い。
では、なぜジャズはカッコいいのか? まずそれは、ジャズがアメリカの雰囲気の象徴だからだと思う。戦後、日本にはアメリカ文化が大量に流入してきて、それ以来、日本人はアメリカの文化はカッコいいという感覚を持ってきた。カッコいいアメリカの映画を見て、バックに流れているジャズ的な音楽を聴き、これこそがアメリカのサウンドだと魅了されたわけだ。
しかし、ジャズという音楽の持つ魅力は「アメリカ的」ということだけではないだろう。ジャズは言うまでもなく、アフリカからアメリカに連れて来られた黒人たちの固有のリズム感覚の上に、西洋の音楽のメロディーや和音感覚を乗せて出来た。このような、二つの文化のいいところの融合がジャズの魅力の源と思われる。
しかし、ジャズの魅力はこれに尽きない。続きは、その2で。 Nat
小生自身の直感としては、長い長い人生の旅の末、神を信じて生きる人の道を選びとった。眼前の生き物への思い、あるいは神を信じ切って生き・死んだ親父との触れ合いからの思い、小生自身のそれこそ“直感”。そういうものも、大いに背景にある。しかし、それらは全て、人間の非合理的・情緒的な直感だ。否定しようとすれば、瞬間的に崩れ去る程度の直感かも知れない。そういう中で、死ぬまで、信じて生きようと決めた、その決め手になっていることは結局何なのか?それは、やっぱり、聖書の中で出会ったイエスという人間、周りにいた人たちに強烈な衝撃を与えた人イエス、復活などと言う常識的には絶対あり得ない体験をしたと人に言わせたイエス、そのようなイエスのインパクトが、全ての懐疑心・シラケを上回って小生のたましいを捉えたとしか言いようがない。稀代のペテン師イエスにまんまとひっかって、全くアホなことを信じてしまっている憐れな男と思われることもあろう。本当はそうかも知れない。人間にはその辺の真相は分からないのだから。しかし、小生は、イエスがペテン師であろうが、神の人であろうが、或いは神そのものの化身であろうが、その強烈なインパクトによって生かされて今に至っている。それ以外の人生は考えられない。このシリーズを通じて、そのことだけは言っておきたかった。
「人間は誰も顧みてくれない、そんな自分を、神までが見捨てた」と思った時、人間の絶望がある。12年もの間、体から出血が止まらない病気で、全財産を色々な医者につぎ込んだが、やはり治らなかった女性。無一文になってもなお出血が続き、更に皆から「汚らわしい女。何か罪を犯したバチ当りの女」と蔑まれ、体も心もたましいも消え入りそうになっていた彼女。そこにイエスが通りかかった。追いかけの群集に囲まれたイエス。女はイエスに面と向かって接触することはとても出来なかった。そこで思い余って、後ろからそっとイエスの服に触れる。触れただけでも治るのではと思ったからだ。
その瞬間、イエスの体から力が出て行き、女の出血が止まる。しかし、イエスの愛のわざはここから始まる。イエスは立ち止まり「今、私に触れた人は誰?」と振り向き、その人を探そうとするのだ。イエスは、その人を放ってはおけなかったからだ。女が恐縮して進み出ると、イエスはその女に語りかける。「あなたか。あなたは私を信じたんだね。もうあなたは皆に蔑まれることはない。これからはもう元気に生きられる。」その女は、病気が治っただけではなかった。神の人と思えるイエスが、わざわざ自分のために立ち止まり、振り返り、自分の心に語りかけてくれた。その時彼女は、神さまは自分を罰していたのでも、無視していたのでもなかった、神さまは今この私を振り返ってくれたのだ、と確信したのである。イエスが「愛の神」を証した場面のひとつである。
このように、イエスは病気や障碍者を物理的に治すことで神の力も示したが、殆どの場合、物理的な治癒だけでは、人間は完全には救われない。神から遠い所にいたと思っていた人の心に、神の愛を注ぎ込むことがないと救われない。イエスはまさにこれであった。イエスが神そのものの「化身」か、神から特別の役割を与えられた人間であったのかは分からない。しかし、人はイエスの中に「愛の神」を、しかと見たのである。 Nat