前回、キリスト教は「愛の神」モデルと書いた。キリスト教の原型になっているユダヤ教はどうか?
ユダヤ教も本質的には「愛の神」モデルだ。皆さん、ユダヤ教と旧約聖書に出てくる「十戒」なるものを御存知だろう。「汝殺すなかれ」などの10の掟だ。そういう十戒の感じからすると、ユダヤ教の神は「愛の神」モデルというより、厳しい掟を課してそれを守れない人を罰する「恐怖の神」モデルに思えるだろう。実際、ユダヤ教では、神は近寄りがたい、人間を超越した存在でもある。
しかし、実は十戒の「掟」は、「掟」の前に、神の一方的な愛が大前提になっているのだ。エジプトで奴隷になっていたユダヤ民族を、神は大きな愛と力で救い出し、今のイスラエルの地にまで連れ戻してくれた。この愛の神への感謝・信仰が先ずベースにある。だから、十戒の「汝、殺すなかれ」という表現は、実は文法的にはむしろ「汝、殺さない」に近い。「あなた達は、エジプトから導き出してくれた神の大きな愛を知った。そんな神の愛を知ったあなた達は、もう他人を殺そうなどとは思わないでいい人達になった。だから、あなたは人を殺さない」という意味だ。決して「本当は、かっとして、人を殺したいと思うことの多いあなただが、ルールだから、無理にでも、絶対殺さないように抑制しなさい」という意味ではないのだ。
ところが、このユダヤ教が次第に変節していく。その?で書いた通り、どうも人間には、ルールを決めて、そのルールさえ守っていればOKというモデルが好きな面があるらしい。特に気真面目体質の人にとっては、このモデルは分かり易く、極めて肌に合うものとなる。しかも、ルールを守れるような、ある程度の精神的・経済的余裕のある人は、ルールを守って生きている自分に自己満足出来る。更に進んで、ルールを守れない人、守る余裕もない弱い人たちのことを見下し、「あいつらは神に捨てられる」と軽蔑し、その分、自分が高まった気分になる。イエスが登場した頃のイスラエルは、まさに、このように形式化し自己目的化した戒律中心のユダヤ教が支配していた。「地の民」と呼ばれ、貧しく余裕もなく、戒律などとても守れなかった弱い下層階級の人たちは「神に捨てられた者たち」と看做されていたのである。これらの人たちにとって、神は、まさに「恐怖の神」あるいは「遠い神」であった。イエスは、このような中に登場する。この続きは次回。 Nat
<遠い神 モデル> 神との関係の次なるモデルは、「神は遠く、無関係」モデルだ。神は確かにあると想う。宇宙の心として。宇宙の彼方に冷徹な永遠の心としてある。しかし、この神が、いちいち人間の為すことに口出ししたり裁いたりすることもない。人間の運命をいちいち支配することもない。ただただ宇宙の果てに、時間を超越した存在としてあるのみ。人間は、そういう神と、全く違う次元で、ちまちまとこの世で生き、死んでいくのみ。つまり、神は遠くにあるが、我々とは実質無関係というモデルだ。このモデルで生きる場合、神の存在を想って、幸せにも不幸せにもならない。実質無関係なんだから。
<愛の神 モデル> 3つ目のモデルは、もうお分かりですね。そう「愛の神」のモデルだ。神は宇宙の彼方にもいるが、直ぐ近くにもいる。我々一人ひとりと深い関係も持っている。事実、我々の人生の中で起こる全てのことを、実は、神が決めている。我々人間はヤバイ行為もする。利己的な心にもなる。神はそういう時、悲しい気持ちになる。しかし、神は結局、そんな我々を滅ぼすことはない。親が子を叱りながらも愛するように、神は愛だから。これは、概ねキリスト教の神モデルだ。このモデルの場合、神があると想うこと・信じることで、却って苦しみになることもなく、「無関係」といったシラケもなく、人生に幸せをもたらす可能性がある。だって、神は愛なんだから。
Nat
でも、これでは面白くないだろうから、もう少し、身近な直感から拾っていこう。まず私の場合、生命。草花でも昆虫でも犬でも人間でも、生命を見ていると、生命の大元に「根源的生命」のようなものがあって、それが一つひとつの生き物に「命」を与えているという直感がある。生命や進化に関する科学的論文は好きだから、若い時には色々研究した。その結果、やっぱり生命の裏に共通する「根源的生命」があると直感している。それそのものが「神」とイコールかどうか分からぬが、それは「神」から来ていると直感している。
ここまでは日常の中からの直感なり感化だ。しかし、最も大きなインパクトは、“神”と特別な関係があるとしか思えない「特別な人」から来る。霊感なのか、超能力か分からないが、神とコミュニケート出来ている、或いは人間の限界を超えて目に見えない世界にまで踏み込めているとしか思われぬ特別な人が時々いるようだ。ところが、麻原彰晃のようなのも時々登場するので、ホンモノがいるとしても、我々にはなかなかニセモノとホンモノの区別が難しい。だから、所詮、そんなのは大なり小なり皆インチキだと決め付けて全て無視するのも手だろう。しかしながら、歴史上、あのイエスなり、マホメットなり、あるいは少し種類は違うが釈迦といった、相当のインパクトを与えた人たちになると、その周りに、おおいに感化を受ける人が多く出てくる。要するに、その特別な人の中か後ろに“神”を見るということである。それも、目で見えるということではなく、これまた“心”でそう受けとめるということである。それでもあなたは「私は、そういう特別な人に出会ったことがありませんからね」というかも知れない。しかし、そういう特別な人に出会って感じ入った人から、間接的、二次的ながら感化を受け継ぐパタンはあり得る。要するに、宗教はそういうものだ。特別な人から最初に直接的、一次的に感化を受けた人が、間接的、二次的に人に伝えていくのが宗教であろう。ずっと続く宗教というのは、やはり、その大元の「特別な人」のインパクトが極めて強烈であったのであろう。
何から神を直感するか。目の前の命、信じて生きる人との出会い、「特別な人」のインパクト、この3つを述べてきた。最後にあるのが、人生の何か特別な体験から急に感じるようになるパタンだ。死に掛けた人、愛する人を亡くした人、人生で大きな転換点を経験した人。さまざまだが、そういうきっかけで、直感する。そういうパタンも結構ある。
この間、元の職場の仲間と楽しく飲んだ。
その時にいた先輩の一人が、自分の知っているクリスチャンがダビンチ・コードのことで怒っているという話をするので、それ来たと思って、このブログにも詳しく書いた「イエスは人か神か」問題に関する小生の考えを話した。しかし、その先輩よりは、「それは、まずそもそも神があると仮定しての話だな」「またイエスについても、そもそも実際に復活したわけがないよな」とのご指摘。
「神なんてものが本当に存在すると思うのか?」「人間イエスが一度死んで復活したなどと信じられるわけがない。」---- これは、非常にごもっともなお考えだ。合理的・科学的にロジックで考えると、そうなるのが普通だろう。その飲み会では、話が別の方に進んでしまったので、このことに関する小生の思いを話す機会はないまま終わった。しょうがないので、ここに書く次第である。
まず、神があるかどうか。これは原理的に言って、人間には神があるともないとも立証できない。なぜなら、「神」の定義を「世を創造し今も世の全てを司っている精神の如きもの」と考えたとする。極めて有限で非創造物の一部である人間には、宇宙の全体も把握出来なければ、時間の最初から終わりまでも辿ることも出来ない。そのような有限の人間が、無限の宇宙・時間の大もとの「神」について、探りを入れたり、実験や試験をして、神の有無につき何かが立証できることはあり得ない。
の存在の背景には神があるかも知れないし、ないかも知れない。花の背景に神の存在があったとしても、花を顕微鏡で調べ尽くして神が発見できるわけがない。しょせん人間側から確認できる程度のものであれば「神」ではない。
、生き方の選択の問題なのだ。これまでの人生体験から、特に「神があると想って生きる」人にならなかったか、何らかの人生体験から「神があると想って生きる」人になったかの違いが出ているということなのだ。
昨日、私の行っている教会で、朝早いほうの礼拝は、幼稚園くらいの子どもから大人までの200人くらいが皆一緒に集まる礼拝だった。
聖書の言葉からのメッセージ(伝えるべき意味のお話)担当は私だった。聖書の個所は「ルカによる福音書5章1~11節」。そこを読んで、私の感じた意味を話したのだが、今日は、話したとおりをここに書くことにする。つまらなかったら、御免なさいね。
イエスは、漁師には漁師の気持ちになって、漁師がその時一番困っていることを一緒にしようと語りかけて下さる。病人には病人の気持ちになって、病人の一番必要なことを一緒にして下さる。困っている漁師も、病人も、難しそうな神さまの話は要らない。要るのは、困っていること、悩んでいることそのもので一緒に働いてくださる方だ。イエスはまさにそれだった。