いつも人と自分を較べては一喜一憂する人に「どうして、あなたはそんなに人のことを気にするの?あなたはあなたでいいじゃない!」と言っても、多くの場合は無駄だ。その人にとって、他人との比較以外に自分というものの存在を確かめる手段がないからだ。極端ないいかたになるが、自分の価値観は、結局「人の目」「人との比較」でしかないからだ。しかも、そういう人がいかに多いことか。
「自分は自分」という価値観を心の底から持てるためには、どうしても、神を想定せざるを得ないということを書いてきた。自分という存在が、親のDNAの遺伝の仕方の偶然で決まっているだけなら、今の自分の鼻の形なり、頭の回転の度合いなりという自分の個性は、ただただ偶然の産物だから、それ自体に深い意味はない。ただただ、人と較べて初めて、人の鼻より偶々カッコよい鼻に生まれついたのか、人と較べてどうも頭の回転が遅い自分に生まれついたのかといったように、偶然の結果の意味が分かってくる。自分という存在がラッキーな存在なのか、偶然とはいえ、余りにもアンラッキーな存在なのかは、人と比較することによって初めて分かってくる。自分が偶然の産物と見る人生観では、ひたすらに人と較べて一喜一憂するしかないのだ。
しかし、自分が神の手作りの世の中に一つしかない作品、しかも、神が愛を込めて創った作品と思う時、これが全然違ってくる。鼻の形も、頭の早さ・遅さも、全て、神さまのデザインによるもの。人間から見ると意味が分からないことも、作者の神からすると、意味があるはずだ。そう信じる時、全く別の人生が開けてくる。鼻の形は他人の鼻と比べる時には、人より細いとか団子だとかいった相対的な違いが気になる。しかし、自分が神の創造物と思える時、自分の鼻も、頭も、性格も、全て、神さまが自分に下さった「特注品」になる。その特注品の意匠は神の考え。私にはそれがベストだ、との神の考えでそうなっている。それぞれの人が特注品。だから、出来損ないとか、欠陥商品とか、特上品とかいった概念はない。本当にそう思える人生は素晴らしい。「人の目」「人との差」の意識で、疲れ果てて生きる人生の100倍ほど、豊かで楽しい。それが神というあなたの作者を信じることの出来る人生だと思う。 Nat
それ以外に、人間の思いはないのか?「人の目」「人との差」だけが人生の全てか?これに対して、唯一、あり得るとすれば、やはり、人間に大いに関係があるが、「人」ではないもの、これしかない。それは何か? 自然? 宇宙? 近い。そうだ、自然であり、宇宙でもあり、しかもあなたに重大なる係わりのあるもの。私はそれを「神」と呼ぶ。あなたを創ったもの。あなたをこの世に命として創り出し、命として送り込んだもの。私はそれを「神」と呼ぶ。その「神」は、あなたの遠くにいて、あなたから超越した「宇宙の心」であり、あなたの鼻が団子鼻であろうが、あなたがノロマであろうが、そんなこと知ったことじゃない、という超越レベルの宇宙的・哲学的存在なのだろうか? それとも、その「神」は、あなたを手作りで作った「あなたの作者」であり、あなたを宇宙でたった一つのかけがえのない作品として、あなたを極く近くで大切に見つめているのだろうか?
このように、「神」を「遠くにある宇宙の哲理」と想うか、「私の作者」と想うかは、あなたの人生に大きな違いをもたらし得るのである。「私の作者」と想う場合、私の「この、人よりもカッコ悪く思える団子鼻」も神さまが私のために創られた「私ならではのデザイン」、そして、この「人との比較では一見ノロマに思える私の能力」も、神さまが、私のために、私に下さった、私にしかない、私の個性。このように捉え返し、人との比較とは全く別の「神と私の関係」から、「団子鼻じゃない私は神さまの創られた私ではない」「一見ノロマな私でないと、神さまが創られた私ではない」と思える人生の可能性が開けてくるのだ。そう思える時、「人の目」「人との差」の支配する人生から、「神に対してかけがえのない存在の私」という思いがもう一つの座標軸となる人生に転換されていくのである。
座標軸が「人の目」「人との差」の横の関係の一次元でしかないと、そうならざるを得ない。しかし、それだけでない、自分の命を創ったものとの縦の関係を想定する時、初めて人生は縦と横の二次元の拡がりを持つのだ。
人間が「人の目」「人との差」だけからの呪縛から解放されるのは、恐らく「神」との関係という「もう一つの縦の座標軸」に気がつくことでしかあり得ないのではなかろうか。 Nat
私は、この「人から見て、自分は集団の中のどの辺に見えるか」という意識は、日本人の良さでもあるし、消すことの出来る意識でもないので、それはそれでもう、大前提として生きるのでもいいと思う。しかし、「私の人生の価値観は、とにかく、集団の中で人にどう見えるか、それだけです」とまで言い切れる人はいるだろうか?多分いない。しかし、現実的には、結局、それだけになってしまっている人が余りにも多いのではないだろうか?
では、「集団の中で人にどう見えるか」以外に何があるというのか?「自分で自分をいいと思えれば、それでいいのさ」とかカッコいいことを言いながら、案外、強烈に他人の目と、比較対象の集団を意識してたりするのが人間ではないのか? 人間は他に何を意識して生きることが出来るというのか? いよいよ、ことの本質に迫ってきた。ではまた次回。 Nat
理屈で考えると、他人との比較で「幸せ感」が十分得られる人は少ないはずだ。その人の気にするもの、例えば、「頭の良さ・悪さ」、或いは「目の美しさ」、それとも「歌の上手さ」でもいいが、気になることで他人との優劣を気にしてみよう。あなたが、それでいい気分になれる為には、多分、あなたは、その項目に関して、世の中の上から4分の1以上辺りに位置している必要があろう。世の中の真ん中辺りの位置でしかないと、「勝った」と思うことと「負けた」と思うことがだいたい半々だから、均してみるとそんなに「いい気分」とか「幸せ感」にはならないだろう。どっちかというと「負けた」と思った時の屈辱感の方が尾を引くから、半々くらいでは多分「いやな気分」「不快感」が後に残るのではないか。ましてや、あなたが下位に属している場合は、最初から他人と較べるのは自虐行為に近い。勿論、自分の努力での改善効果でどれくらい他人との差が埋まったかを見るのも良かろう。しかし「勝った」と思えるまでには、相当距離があるはずだ。だから、「いい気分」と思える為には、相当上位である必要がある。尤も本当に頂上にいる人は、もう他人との優劣を気にしない。自分自身の世界で更に高いところを目指すだけだ。とすると、他人と自分を較べて本当に「いい気分」になれる人は、頂上でもなく、上から4分の1辺りで、まだ人が気になる、比較的一握りの人ではないか。それ以外の大半の人は、他人と自分を較べて、結局いやな気分になっているだけではないだろうか。というのが、私の思う理屈である。
猿もそうだが、ヒトという動物は群れを作り、群れの中での相対的な関係や優劣をいつもいつも気にして一喜一憂して生きる存在のようだ。他の人との優劣意識は、人間の喜びであり、ねたみ・そねみとして努力する力の元にもなり、また、「私はもう駄目だ」と思って失望し絶望もする。人間は生まれてからずっと、他の人間との優劣問題で喜び、憤り、悲しみ、それを最後まで続けて死んでいく。そのように作られているのだから、それから逃れようと思っても無駄だ。人間は全ての瞬間に、他の人との相対的な序列なり優劣なりを気にする存在なのだ。
しかし、それが人間をむしばみもする。人との比較で、人は疲れてくる。人より「いい子」になろうと無理して神経や体がダウンする。生まれつき自分の数倍優れていると思われる人を前にして、人は何ができるというのか。こんな自分になんの価値があるというのか?と落ち込んでしまう人も多い。そのような状況を打破するために、破滅的な行動に出てしまう人もいる。自虐的な行為に走ってしまう人もいる。一方で、人より優れていると陶酔して、他人が見えなくなってしまう人もいる。
このように、人間の心のバランスの崩れは、他の人との比較意識が昂じてそうなることが多い。「他の人と比べないように」といわれても無理な我々。でも、他の人と比べる意識が人生を支配している、そんな人生もシンドイ。今回は、このことについて、では私がどう思っているかを、ちょっと書いてみたい。次はその?で。