その?で、私が結局神さまを信じて生きることになったのは、同じく信じて生き、信じて死んだ親父からの「連鎖反応」だと書いた。そして、このような連鎖反応は、ずっと昔にまで遡る。キリスト教の場合は、2000年前のイスラエルが連鎖反応の「震源地」。そこでは一体何があったのか?
その頃のイスラエルでは、殆どの人がユダヤ教、或いは周辺部に行くとバール神への信仰という世界。だから「神さまってホントにいるの?」と、表だっていう人は少なかったはずだ。むしろ、「どの神?」そして「その神はあなたとどういう関係にあるの?」が問われていたと思う。しかし、実は「本当に神さまはいて、この私を顧みて下さっているのだろうか?」との深い疑問、深い絶望に囚われていた人は、下層階級を中心に大勢いたのである。このような人達の中から、人との出会いの中で「神」を感じ・信じた人達が登場するのである。これが、私がここに書いている「震源地イスラエルで起こった連鎖反応の出発点」なのである。
それはイエスという人との出会いであった。
ここにある女がいた。若い頃から病気でずっと出血が止まらず、効かない治療に全財産を使い果たしてしまったばかりか、皆から病気なのは「罪で穢れているから」と蔑まされてきた女性。体も心も財産も全て限界に達していた彼女は、群集に紛れて後ろからそっとイエスの衣に触れる。イエスは自分から力が出て行くのを感じた。その瞬間、彼女の病気は癒される。しかし、癒しはそこで留まらない。立ち止まったイエスは、振り返り、自分に触れた女性を探すのである。そして女性を見つめながら「あなたは罪で穢れてなんかいない。むしろあなたの信仰があなたを救ったのだよ」と優しく語りかけ、その女性の心も魂も完全に癒すのである。「こんな不条理な世に神などいるのか」と思っていたこの女性は、この出来事により“活ける神”に出会ったのである。イエスが「神そのもの」かどうかは分からない。しかし、その力において、その愛において、まさに「神に繋がっている」としか思えない人に出会ったのである。
しかし、そのように力と愛に満ちたイエスが、何故か突然、無抵抗に逮捕され、そのまま十字架で刑死してしまう。周囲にいた弟子たちは落胆し恐れ逃げ惑う。そのままでは、未来への「連鎖反応」は発信されそうもない情勢になってしまったのである。しかし3日目の朝、彼らは魂を揺り動かされる「とてつもない体験」をするのだ。これが、その後、2000年もの間止むことのない「連鎖反応」を生む「とてつもない出来事」になるのだ。その「とてつもない体験・出来事」とは一体何だったのであろうか? これにつき、その?で書きたい。 Nat
では、この私こと、Natに起こった連鎖反応はどうなのか? 客観的に言うと結局親父からかなと思う。その?で書いたが、親父は大学の先生兼牧師だった。私は親父が40歳過ぎてから初めて生まれた男の子だ。だから年が近い友達のような父子ではなかったが、親父がその色々あった人生の中で、結局神さまを深く信じて生きているのは良く分かっていた。私が最初に神さまを信じて親父から洗礼を受けたのは中学2年の時だが、もう一度信じ直したのは、やっぱり親父が死んだ時だろう。何百回も神の存在を疑ってみた私だが、私からすると疑わしいものを信じ、信じ切って生き、信じ切って死んで行った親父の信じたものを、思い込み・幻想として葬りされるであろうか。私は結局、そのように「親父が信じて生き、信じて死んだもの」の重みに圧倒されたのである。人を最後まで突き動かすもの。これを私はどうしても軽んじることが出来なった。
このように、実質、私は親父からの連鎖反応を受けた。しかし、では親父は誰から?多分、親父の親父(私の祖父)とお母さん(私の祖母)から。(彼らは開拓伝道をした牧師夫婦であった。) でも、彼らに連鎖反応を与えたのは誰? このように辿っていくと、多分、どんどん昔に遡る。名前などは分からないが、ずっと辿ると必ず連鎖反応の源の誰かがいるはずだ。どこかで、日本に初めて連鎖反応をもたらした人達にまで行き着くに違いない。
しかし、連鎖反応を遡ると、そこでは終わらない。ずっとずっと遡ると、(少なくともキリスト教の場合は)2000年前のイスラエルにまで遡ってしまう。そこに連鎖反応の根源的な「震源地」があるはずだ。そのことをその?で書きたい。 Nat
そこで書くのだが、まず、正直に言って、一つ目の理由は、小さい時ずっと神さまの話を聞いて育ったこと。実は父が牧師(というか、父だけじゃなく祖父まで牧師!)の家庭に生まれたので、生まれた時から聖書の話と賛美歌に囲まれてた。もしかして、ジャズピアノをやるようになった背景もこれかも。小さい頃から、神さまだの、イエスさまだのと聞かされていると、やはり大人になっても影響は残る。勿論、中学・高校・大学となるにつれ、何度となく「オレって馬鹿なこと信じてるのかな?」と、それこそ何百回も考えたから、単純なマインド・コントロールではないと思われるが、幼い頃に聞いたことの影響力は多分相当強い。
しかし、モロモロのものに触れ、科学・哲学・諸思想・他宗教も知った高校・大学以降、心の中の「神さま」は一旦相当小さくなって行った。「神さまはいない」と思っても、世の中を生きていく上で全く不都合はなかったし、そもそも回りのことから「神」の確証を感じられるものは殆どなかった。「神などない」と思った方が却って理解し易いことも多かった。しかし、そのような中で、どうしてもやっぱり「神はある」と思わせたものは「命」だったのだ。(そうして、もう一つ、もっと大事なことがあるが、今はまだそれには触れない。)
このBlogで生き物や命について何度か書いたが、目の前の犬でも、蛙でも、あるいは花でも草でも、私にとって「いのち」なのだ。何度も書いた通り、DNAプログラムで動くロボット物体ではなく、紛れもなく「いのち」なのだ。モノではなく、生きている「いのち」である限り、そこに「いのち」を与えた源を想定せざるを得ない。そう、「いのちの源」。それが私の行き着いた「神さま」だった。
私の命も、その源から来ている。そう思う時、次に、その源と自分との関係が問題になってくる。ここに「神を信じる」(レベル3)から「神を信じて生きる」(レベル4)に進むことの意味が出てくるのだが、その辺は次のその?でまた書く。 Nat
「神さまってホントにあると思う?」と聞くと、どう答えますか?
しかし、ご存知の通り近代科学は、雷は電気放電、地震は岩盤のずれ、火山噴火はマグマの噴出、疫病は細菌のしわざ、太陽の出入りは地球の自転、生命はDNA、等などと仕組みを念入りに説明するものだから、大昔の人類が感じたような「自然の神秘性」は薄れた。そこで、専ら自然現象ルートだけで神を想う人は減った。
一方、自然現象ルートとは別に、もう一つ、言わば「直接のルート」がある。即ち、人間には直接“霊性”を感じたり想たっりする感受性が備わっているようだ。特に特別な霊感・霊能力のある人は、普通の人が聞くと「本当かな?」と思うような体験の話しをする。一昔前の西洋の人だが、非常に有名なスウェーデンボルグなんていう博識学者兼霊能者の体験本を読んだりすると、これは凄い。生きている人間の霊が行って帰って来れる広大な「霊」の世界が本当にあり得るかもと思わせる。太古の昔のインドの聖者なども同様に、人間を超えた目に見えない世界に肉薄した。でも、特別な霊能者でなくても、霊性に対する想い位は持ち合わせている。日本人でも良く「死んだおばあちゃんが助けてくれたんだ」とか「あの世からお父さんが見守ってくれている」とか言う。「神」は分からなくても「死んだ人の霊がどこかにある」という想いは日本人に根強い。このように“霊”の世界を想定すると、その頂上にあるかも知れない「神」は、センスとしては十分想定できるということになる。