久しぶりに音楽の話。私は一応ミュージシャン(のはしくれ)ですが、自宅のオーディオに凝らないことにおいては、多分誰にも負けないほど無頓着です。自慢にはならないけど。スピーカーなんか、40年近く同じのを使っていて、この間、友達があきれて、モノがいえなくなったくらいです。でも、音響が大したことあろうがなかろうが、例えば大好きなアートペッパーのアルトサックスのむせび泣きは、やはり、むせび泣きで、十分心に突き刺さります。
音響に凝る人を悪くいうつもりないけど、音響に凝る人は、その分、音楽を聴いてないような気もします。音を聞いているけど、音の連なりで出来ている音楽の本来の意味が心に伝わっているのかしら、とふと思います。もし違ったらごめんなさい。
そんな私が、ふと、エムズ・システムというベンチャー企業のMSシリーズのスピーカーの広告見て発作買いしてしまいました。木の胴の左右にスピーカーがついていて、何やら「波動スピーカー」とか言うものなんです。40年前のスピーカーと比べたら可哀想ですが、音にウルサイ私の息子夫婦とも一緒に聞きましたが、一つ一つの楽器がくっきりしていて、それでいて、音がお部屋を包むのです。アートペッパーが私のお部屋で吹いてくれてる感じです。
40年ぶりに音に関心が行きました。エムズ・システムという会社は全然知らない会社ですけど、「有難う!」って感じです。
これで、またやる気が出て、ライブの準備します。次回は、9月30日に西麻布のMisty(リンクご参照)でです。私のピアノトリオ+2。超有名曲大会。乞うご期待。Nat
最近、教科書問題などに絡んで「戦争で日本ばかりが悪かった訳でもない」といった論調の意見や著書が多く出てきている。いわゆる「戦後の自虐史観」を是正しようという動きだ。これに対して左派は「右翼・軍国主義者による歴史修正主義」というレッテルで応戦する。
これに対する左派の批判は、概ねこんな所か:『右翼歴史修正主義者こそは、最初から政治的意図をもって、逆に史実の中から都合の良い事柄のみ取り出している。また、米・ソ、或は中国側の問題行為に着眼、戦争では皆同じことをしていたとして自らを無罪化せんとしている。往々にして彼らはアジア他民族蔑視であり、他民族の被った苦しみを痛む心情が欠落している。戦争のきっかけや原因において、日本が中国で共産党の挑発に乗せられて日中戦争にずるずる入って行ってしまったとしても、また米国の策謀に乗せられて太平洋戦争に引き込まれたにせよ、更に他の国でも類似の侵略行為があろうがなかろうが、結果として日本軍がアジア他国を侵略し、戦時の異常事態の中とは言え、至る所で様々な戦争犯罪行為をした事実が消えるものではない。』
私の見るところ、このような両サイドの意見は、それぞれ別の場で一方的に述べ立てられるのみで、決して同じ場で向き合って“冷静に”事実関係情報や意見の交換がなされることはない。そもそも相手方のことを最初から敵視し嫌っており、相手方から何か学べるものがあれば学ぼうといった姿勢がどちらにもない。これでは日本は進歩しない。若い世代には結局何も伝わらない。右派の「自虐史観是正派」の指摘するように戦後教育は確かに偏りがあったようであり、敢えてハイライトが当てられていなかった史実も正当に表に出し、若い世代の評価に委ねていく努力は必要であろう。しかし「日本軍の罪」に一方的に偏っていた点を是正しようとする余り、日本軍の行為全てを無罪化しようとしたり、更には美化までしようとするならば、左派の懸念する通りになってしまう。一方左派はそのような懸念の余り、右派の指摘しているフレッシュなポイントについて目をつぶってしまうのでは進歩がない。今の所、このような建設的な対話や意見・情報交換が進んでいない点こそが懸念される。むしろ、戦争責任評価を巡る意見の対立が新しい憎しみ
を生みつつあるかのようである。 Nat
一方、中国や韓国の戦争被災者の話になると、状況が一変する。こちらは攻め込んだ側であるので、攻められた側の被災については、必ずしも一様に同情感が湧くとは限らない。むしろ、日中戦争の経緯・本質について、「はめられ引き込まれていったもの」と考えるか、「最初から侵略一筋であった」と考えるかによって、中国側被災に対するスタンスも、「已む無きこと」から「日本の重罪」にまで大きく異なってくる。従って番組を作る者にも何らかのしっかりしたスタンスが必要となり、気が重くなるかもしれない。また、中国現地に行って取材する必要も多いなど、取材の難しさもあろう。
重慶爆撃は、1938年12月から1941年9月までの3年近くの間に、重慶市に対して200回以上に亘り日本軍が空爆を加え続けたものである。国民党政府が南京から重慶に退き抗戦の体制を整えようとしたのを叩くためであった。この結果、中国側の発表では1万人余りの死者が出ている。爆撃には「戦術爆撃」(軍事施設・政府施設に限定した爆撃)と「戦略爆撃」(市民への無差別攻撃を含めて相手側の戦意喪失を狙う爆撃)とがあるようだが、39年の時点で日本軍は既に殺傷力の強い焼夷弾を使用、アメリカより「無差別爆撃」の非難を受けている。それに対して日本軍は「軍事施設に限定したもの」と回答している。一方、その後、国民党蒋介石が市街地に砲台を配置し対抗しようとしたこともあって、40年の日本側攻撃は文字通り市街地全域に対する組織的じゅうたん爆撃となり、完全に「無差別・戦略爆撃」の形態となる。(その原因を作ったのは市街地に砲台を置いた蒋介石だとの意見もあるが。)41年6月には防空壕の洞に逃げ込んだ市民が5時間爆撃を受け1000人が窒息死するとの痛ましい結末も生んでいる。これが重慶爆撃だ。
昔、青年の頃、男女間にピュアな愛があるか等と随分議論した。勿論、そもそも人間の抱く「愛」に完全にピュアなものがあるわけもなく、また、男女が愛を感じる奥底には「性」があることは言うまでもない。では、性愛も含めてそのように愛し合う男女の愛は、隣人愛とは違うものだろうか? そもそも「愛」とは「相手をとても大切なものと思いその相手に尽くしたいと思う心」である。男女間でも相手のことを全く大切にも何とも思わず、ひたすらにむさぼるだけというのであれば、そこには愛はなかろう。しかし、むさぼるような本能のほとばしりがありながらも、相手を心から大切に思うならば、それは十分「愛」であろうと思う。そして、そのような出会いを下さったことを神に深く感謝する時、「神への愛」もまっとうされると思う。
味わえればいいなと思う。 Nat
『だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい』なのだ。「そ、そんな!?本能なんだから---。別に婦女暴行のようなことするわけじゃないのに--。右の目も左の目も、脳みそも下半身も全部捨てねば---。」私は、青年の頃、聖書の中のあの言葉だけは避けて通っていた。
その後随分年月がたってから、私は漸くある理解に辿りついた。イエスは誰に向かってあのような挑戦的な発言をしていたのだろうか。イエスの言動全般の大きな場面設定としてだが、彼の戦っていたのは「パリサイ人」といわれる、律法の形式的遵守を重視し、そう出来ない下層の民を罪人扱いしがちなユダヤ教支配階層であった。『お偉いパリサイの方々!あなたがたは満ち足りた生活で、美しい奥さんもいたりして、確かによその女性に露骨に手を出したりするようなことはしていない。 一方、皆さんが罪人視するあの貧しき民たちは心寂しく、確かについついそういうことに走ってしまう人もいる。しかし、お方々。あなたたちが女を見る目つきには、彼らと同じかもっとイヤラシイ情欲が溢れているではないか!貧しき民が罪人なら、あなた方も心では同じく罪人だ。いや、偽善の分だけもっと罪は重い。そんな目なら捨ててしまいなさい。むしろ、皆人間には情欲があることを認めた上で、そこを出発点にして、そこからどう生きるかを問い合おうじゃないか。』イエスが真に問い詰めたかったことは、こういったことだったと思う。
荒野の試練でイエスが戦った誘惑は、物欲、神を試したくなる心、そして権勢欲だ。その他の場面でも、イエスが性欲・情欲と戦ったとの直接的記述はない。しかし、イエスが人であった限り、本能のほとばしりを知らなかったわけがない。むしろ、本能も間違いなく神が人に与えたものなのだ。それならば、人はその本能を滅却しようとするのではなく、本能を神と隣人への愛に向けて方向付けし、むしろその方向で活かす、そんな生き方への転換を促されているのだ。
私は今そう信じている。青年の頃、慌てて目をえぐり出して捨てなくてよかった。Nat