このシリーズの1,2で「お金、或は、地位・権勢・評判に心を奪われてしまって大切なものを忘れないようにしたい。でも、ふと気がつくと結構そういうものに気をとられていたりする」という人間の“さが”について書いた。では、実際のこの世の生活で、私たちは、お金や地位・評判などのために、どれくらい、どのように“頑張る”のがいいのか、いけないのか? この点を考えたい。
よく「お金や、地位・評判は、結果であって、目的ではない」と言う。でも、「世のため・人のため」或は「神さまのみ心により」などと、本当に純粋に毎日思って仕事をするのは難しいだろう。現実には“ここでもう少し頑張ると来年度は課長に昇進するかも”といった場合、会社の仕組み上も候補者皆がそれを意識して頑張ることが前提になっている。そんな時に「私は課長とかいったことは一切意識にありません。ただただ仕事を一所懸命やるだけです。結果として課長になれば、それはそれで有り難いことですが」とまで言えるか? そう言う場合、そこに些かの偽善もないか。
イエスが言いたかったことは「仕事の上での昇進や昇給などは一切心から棄てなさい」ということではなかったはず。そうではなくて「昇進や昇給に向けて頑張る中で、自分が神さまから賜物としてもらっている“自分らしさ”への感謝を忘れないようにしよう。昇進や昇給の結果がどうであれ、神さまの恵みを信じ感謝しよう。そして、同じく頑張る他の人間のことを思う気持ちを忘れないようにしよう」そういうことであったと思う。その上で「お金や地位が与えられるなら、それも神さまの恵み。それに向けて頑張るあなたの努力を祝福しよう」ということだろう。
この世を終わる時、一生を振り返って自分が終始一貫何を大切にして生きてきたか? これが問われるだろう。その時々に必要な「パン」「お金」「評価」は、イエス自身の祈り(「主の祈り」)にある通り「神よ、今日必要なものを今日お与えください」というものである。でも、人生を終える時、そのような「その時々に与えられたもの」を思うより、「それを与え続けてくださった方」を思うものでありたい。Nat
この世では、実は「お金」
と「権勢・評判」
が別々の誘惑としてくるというより、結構、この二つがセットになっている。会社でも、認められて課長、部長と昇進すると、この二つがセットで手に入る。逆になかなか評価されず昇進しないと給料も増えないダブルパンチを食う
。同期や後輩で先にどんどん上がっていくやつを見ると、「なんであんなやつが」という「権勢・評判」への“ねたみ”と、「あいつ結構もらってやがるんだろうな」という「お金」の“そねみ”がセットになって襲ってくる。それに対して「自分は自分の生き方をすればいいんだ」等と、自分に言い聞かせながらも、そう割り切れない自分を見出したりもする。権勢もお金も要らないと思いながら、頑張っている自分が何故か評価されないことへの不満はやり場のないものになる。
そんな時、いわゆるキリスト教的・教会的には「そんな貴方のことを神さまは必ずよく分かって下さっていますよ」ということになるわけで、それは、それで大いに励みにはなるわけだが、また昼間に職場などで露骨に「差」を見せつけられると、その瞬間は頭の中が沸騰して、神さまの愛のことは忘れてしまう。これが人間ではなかろうか。確かにそんな人間だからこそ、神さまは人間のところにまで降りてきてくださり、一緒にいてくださるのだろう。でも、頭が沸騰した瞬間、一緒にいてくださる神さまは一体何をされ、何を思っておられるのだろうか????
人間探求は続く。。。。 Nat
このところ、シリアスな記事ばかり書いて疲れたので、こぼれ話: