日本は「敗者復活戦」のない社会とも言われる。つまり、いったん社会的に落ちこぼれると、二度と上の方には戻れない社会という意味だ。実力よりも肩書きが重要視される。大学でも希望の“一流校”に落ち“二流校”、“三流校”卒となると、一生それが付きまとう。前科者にまでなると、社会復帰は非常に難しい。例えばアメリカとの比較。アメリカでも前科は大きなハンデイーになるだろうが、学歴は日本に比べると一生の格差にまではなりにくい。また、日本で本物のベンチャービジネスがなかなか育たない理由として良く言われることが、日本では事業に失敗すると、二度と一人前の人間扱いされないということがある。アメリカでは、事業に一度失敗しても、一度失敗した人なら今度は失敗すまいということで、次の敗者復活の事業提案を出資支援者がちゃんと検討してくれる素地がある。一方日本では、新しい事業に果敢に挑戦して失敗するリスクは避けられ、大企業で暮らす安全な人生が好まれる。一度でも失敗した失敗者に対して厳しい社会だからだ。
しかし、もっと辛い「敗者扱い」は、社会そのものからの追放による人間性の否定であろう。日本でも長い間差別された「特殊部落」があり、社会から疎外されていた。しかし、思うに更に辛いのは、古代ユダヤの“罪びと”ではなかっただろうか。旧約聖書の物語の対象であった古代のユダヤでは、ユダヤ教の戒律を守れない下層階級の弱い人たちや取税人、娼婦等の“穢い”仕事の人たちは、「神に見離された罪の中にある人たち」とされた。そればかりか、重い皮膚病を初めとする慢性疾患の人も同様に「神にも見棄てられた穢い人たち」とされた。普通のユダヤ人も、神から見れば大なり小なり罪があることを自覚していたが、それは神殿におまいりして賽銭を投げ入れ、いけにえの捧げ物を奉じることで赦されるとされたし、年に一度の贖罪日などという日もあった。しかし、「神に見離された罪人」として社会から追放された弱い者、娼婦等、あるいは慢性病の者たちは、そもそも神殿には入れてもらえない。祭司たちにも近づけない。ただでさえ、貧しく、慢性病等で苦しい辛い人生なのに、人間性を否定され、更には神にも見離された者との宣告を受けていたわけである。このように、古代ユダヤ社会では、一旦下に落ちた人間が「敗者復活戦」で上に戻る道が、制度的に用意されてなかった。これは社会制度としても欠陥である。そして、落ちた人間は、生きたままで人間としてはぼとんど死んだような状態に捨て置かれるという悲しさの中にいたのである。
このような捨てられた民の一人ひとりに向き合い、救おうとする人たちが出てくる。まず登場するのが、バプテスマのヨハネといわれた荒野の住人だ。それまでのユダヤ社会で異教徒をユダヤ社会に迎え入れる際に「洗い清める」洗礼という儀式をしたが、バプテスマのヨハネは、それを“生まれ変わって出直したい”全ての個人に対して行ったのである。そしてその延長線に、ついにイエス・キリストが登場する。 この続きを次回に。
Nat