♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

敗者復活戦のない社会 その1

  日本は「敗者復活戦」のない社会とも言われる。つまり、いったん社会的に落ちこぼれると、二度と上の方には戻れない社会という意味だ。実力よりも肩書きが重要視される。大学でも希望の“一流校”に落ち“二流校”、“三流校”卒となると、一生それが付きまとう。前科者にまでなると、社会復帰は非常に難しい。例えばアメリカとの比較。アメリカでも前科は大きなハンデイーになるだろうが、学歴は日本に比べると一生の格差にまではなりにくい。また、日本で本物のベンチャービジネスがなかなか育たない理由として良く言われることが、日本では事業に失敗すると、二度と一人前の人間扱いされないということがある。アメリカでは、事業に一度失敗しても、一度失敗した人なら今度は失敗すまいということで、次の敗者復活の事業提案を出資支援者がちゃんと検討してくれる素地がある。一方日本では、新しい事業に果敢に挑戦して失敗するリスクは避けられ、大企業で暮らす安全な人生が好まれる。一度でも失敗した失敗者に対して厳しい社会だからだ。

 

  しかし、もっと辛い「敗者扱い」は、社会そのものからの追放による人間性の否定であろう。日本でも長い間差別された「特殊部落」があり、社会から疎外されていた。しかし、思うに更に辛いのは、古代ユダヤの“罪びと”ではなかっただろうか。旧約聖書の物語の対象であった古代のユダヤでは、ユダヤ教の戒律を守れない下層階級の弱い人たちや取税人、娼婦等の“穢い”仕事の人たちは、「神に見離された罪の中にある人たち」とされた。そればかりか、重い皮膚病を初めとする慢性疾患の人も同様に「神にも見棄てられた穢い人たち」とされた。普通のユダヤ人も、神から見れば大なり小なり罪があることを自覚していたが、それは神殿におまいりして賽銭を投げ入れ、いけにえの捧げ物を奉じることで赦されるとされたし、年に一度の贖罪日などという日もあった。しかし、「神に見離された罪人」として社会から追放された弱い者、娼婦等、あるいは慢性病の者たちは、そもそも神殿には入れてもらえない。祭司たちにも近づけない。ただでさえ、貧しく、慢性病等で苦しい辛い人生なのに、人間性を否定され、更には神にも見離された者との宣告を受けていたわけである。このように、古代ユダヤ社会では、一旦下に落ちた人間が「敗者復活戦」で上に戻る道が、制度的に用意されてなかった。これは社会制度としても欠陥である。そして、落ちた人間は、生きたままで人間としてはぼとんど死んだような状態に捨て置かれるという悲しさの中にいたのである。

 

  このような捨てられた民の一人ひとりに向き合い、救おうとする人たちが出てくる。まず登場するのが、バプテスマのヨハネといわれた荒野の住人だ。それまでのユダヤ社会で異教徒をユダヤ社会に迎え入れる際に「洗い清める」洗礼という儀式をしたが、バプテスマのヨハネは、それを“生まれ変わって出直したい”全ての個人に対して行ったのである。そしてその延長線に、ついにイエス・キリストが登場する。 この続きを次回に。   Nat

鳩山の普天間は迷走? 追記

 その後、マスコミで「鳩山政権が発足時にしっかり政索に関するすり合わせを内部でしていなかった、基地問題で政索の全然違う社民党とのすり合わせをしていかなったつけが、今頃回ってきた」といった評論が多い。私も前回の論述でそのようなことは書いた。

 

 しかし、余りにもマスコミがそういうので、私は段々しらけてきた。そもそも昨年の連立政権発足時に、そのような基地問題政索の3党合意が可能であったであろうか? 勿論、答えは完璧にNOである。全く可能ではなかった筈だ。 政策すり合わせしようとしていたら、基地・普天間問題は避けて通れないので、テーマからは外せない。だからといってテーマとして採り上げていたら、今回のような社民党との決裂が早くも去年の8月に起こっていたはずだ。だから、全くあいまいな政権公約のままで行くしかなかったのだ。

 

 ということで、予定通り“迷走”した。ところが、今更、評論家が「政権発足当時に政策のすり合わせをしていなかったから」と真顔で言うのを見ていると、悪いが「あなたは本当にプロですか? 本当に、そんなすり合わせが政治的に可能であったのに、サボってなされなかったと思っているのですか?」と聞きたくなる。それよりも、むしろ、あの時、民主党が社民党を入れる以外に選択肢がなかったのかを論じたほうが余程プロの評論家らしいと思う。参議院の議員数からして、あの時社民党の5議席の代わりになる他の政党としてどこがあったというのだろうか? 今でこそ「みんなの党」等が登場しているが、当時は実質他の選択肢はなかったのである。

 

  今度の7月の参議院選挙では、民主党が議席数を大きく減らすだろう。連立相手の選択がもっと難しくなる。今よりも更に「政索合意なき、あいまいな数合わせの連立」を模索せざるを得ないことになろう。民主主義は数合わせの政治の仕組みだ。そこに最大の欠陥がある。しかし、議会制民主主義よりベターな仕組みは未だ見つかっていない。今回の普天間の「迷走」を、鳩山個人の愚かさとか、民主党の稚拙さだけのせいにするのは大局観に欠けている。数合わせでしか政治が出来ない選挙制・議会制民主主義の持つ根本的な「迷走を生む構造的問題」なのである。そして、そのような制度にのっとって選挙で議員・政党を選んでいるのは、我々国民なのである。それが、自分で選んだ議員・政党を、軽々しく馬鹿にしたり、ぺらペら評論する。私は、今回、マスコミが「鳩山政権の迷走」といっていることは、実はその本質において「国民の迷走」であるといいたい。違うであろうか     Nat

鳩山の普天間は迷走?

 普天間の日米合意が発表された。結局、元のキャンプ・シュワブへの移設+訓練の県外分散だ。マスコミは「迷走の末に、この様か!」と叫ぶ。しかし果たして本当に迷走してきたのか?「迷走」の意味が「一貫性を欠く」ということなら、鳩山政権の道筋に十分一貫性はある。多分「迷走」の意味は、特に県外への移設が実現すると思わせて、結局元に戻ったことを指すのだろう。今回県外になるかもしれないと本当に期待した人にとっては「迷走」だろう。しかし、今回は将来への一つのステップに過ぎないと思っていた人にとっては、迷走でも何でもないことになる。

 

 経緯をたどろう。まず2008年の民主党の沖縄ビジョンの中に「在沖海兵隊基地の県外への機能分散をまず模索し、戦略環境の変化を踏まえて国外への移転を目指す」とある。そして昨年の衆議院選挙の際の8月の選挙演説で、鳩山民主党代表は党の沖縄ビジョンに沿って「出来れば国外、最低でも県外に」とたびたび述べた。これが後に問題になる。一方、昨年727日の民主党のマニフェストでは「日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む。」としか明記されなかった。3党合意もこの線までだ。

 

 つまり、民主党、あるいは民主党の政治家の目指したい中・長期的努力の方向感としては、「長期的には出来れば国外移設、中期的には最低でも県外への分散」を目指したいということになる。しかし、短期的に必達すべき政権公約(マニフェスト)となると、そこまでは入れられない。「折角政権が替わったこの機会に、県外などが本当に出来ないのか、一度はレヴューしてみる」というのが精々になる。当面の結論が結局同じでも、基地が永遠の固定化にならないためのステップとして、まずは出来るレヴューから始めようという趣旨だ。しかしそれだけでも一定の意味のある短期施策であった筈だ。

 

 このように「中長期的な努力の方向性」と、「短期実現の政権公約」の二つの間には、大きな時間軸の差があったのだ。しかし、政権発足時に、この辺の解説をしっかりやらなかった。社民党までいる政権内の安全保障問題での意見・立場の違いに相当幅があるから、曖昧にせざるを得なかった面もあろう。また、これは飽くまでも推測だが、鳩山個人の心の中には「ひょっとしたら県外なんて案も見つかるかも」などという楽観があったかも知れない。それで敢えて「今回はレヴューだけ」とは強調しなかったのかもと思う。しかし、結局、短期・中長期の目標の差を明確にしなかったことで、関係者によって受け止め方に差が出てしまった。これが、これが今回、沖縄県民、国民、マスコミそれぞれの立場でのイライラや憤懣、失望を生んでいる根本要因であり、それが「迷走」と言われてしまう背景だ。冷静に考えれば、去年の秋の段階で、レヴューをしてみても結局はキャンプ・シュワブに戻るしかないことは誰の目にも明らかであった筈だ。民主党政治家の多くもそう考えていた筈だ。それなのに、特に沖縄県民に過剰な期待を生んだのは、3党連立のあいまい妥協の結果であり、政治的稚拙さ・不用意の為す業だが、その代償は大きい。

 

 もう一つ問題を大きくするのが、鳩山首相の発言が良く練られていないことだ。軽いとも言われるが、政治的に稚拙な発言が多すぎる。特に問題にされているのが、54日午後、名護市の稲嶺市長と会談した後、記者団の質問に答えて、昨年の衆院選挙演説で「最低でも県外」と述べたことについて「党の考え方ではなく、私自身の代表としての発言だ」と述べた点。マスコミ等で言い逃れとの批判が噴出した。党の考えと、代表個人の考えを使い分けるのは、これは全く当を得ない。批判あって当然である。彼が言うべきであったのは、「①党の中長期ビジョンに沿い、中期的には県外への分散、長期的には国外移転を目指したい、しかし、②政権の短期必達施策としてとしては、元々レヴューだけで、県外移設の実現までは入っていない」という、本当は政権発足時に解説しているべきであったことだろう。それを「代表個人の発言」などと言って別の話にするのはいけない。

 

  さて、今回、結局移設先が元に戻ったとしても、政権が約束通り「レヴュー」をしたのは、それ自体は進歩であったと思う。私も当面何故グアムなどではダメなのか、今回のレヴューで初めて理解した。海兵隊の位置づけも改めて良く考えることが出来た。そして当分の間は日本の米軍基地は絶対必須だが、長期的にはそれがなくなっていくのを目指す方向感も正しいと受けとめることが出来た。民主党政権が政治的に素人風だった分だけ、国民もこの「迷走」に付き合わされた。それは長い目で見るとプラスかも知れない。このような長期的な日本の歩みの中で、現在起きている混乱や苦しみは、必要な通過点なのだろうということだ。

 

  それにしても、名護市ではもはやキャンプ・シュワブへの移設の受け入れが政治的に困難になった。かといって普天間での凍結も問題が大きい。前にも後ろにも進めない。必要な通過点としての苦しみではあるが、この苦しみはいかにも大きい。政治家もマスコミも国民も、この問題に対しては長期的視野を持ち、冷静に合理的に対応することを望みたい。   Nat

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